紹介
▼湊川高校は兵庫県立の定時制高校です。先の阪神大震災では被災民の避難所になりました▲
▼本書は、この学校に三〇年間勤務し、生徒と向き合ってきた教師の実践記録です▲
▼いまどき「私の学校」と言い切れる教師がどのくらいいるだろうか▲
〈湊川〉で今春、三十年が過ぎた。〈湊川〉というこのたやすくない学校で、私のような者がこれだけの期間、よく続けて来られたというのが正直なところだが、その原動力は、生徒にあった。生徒といっても押しなべて、ではない。部落、朝鮮、沖縄、「障害」者等々、差別や貧困の悪条件と闘っている生徒たちでむろんあったが、いうまでもない。彼らが発する問い、が私を撃った。学校とは何か、勉強するとはどういうことか、教師とは何か。……定時制高校は、三十年前とはずいぶん趣が違っている。〈湊川〉も夜間中学校卒のオモニたちハルモニたちの在籍が多いし、中学時代まで不登校、登校拒否を続けてきた生徒も少なくない。それもこれもあわせて〈湊川〉は、学校の原初の形を留めている。この思いが、定時制高校教師としての私の起点に、今もある。(「あとがき」より)
目次
プロロオグ
拠り所は何か、ということ
私自身のためのノオト
自分のこと/私はいつも遅れて、来た/詩を生きる/あの 過ぎ去った日々
湊川、私の学校
今、私たちの全体、かまたは一人ひとりに/欠けている 事柄は何なのだろうか/〈 湊川〉は、なぜなくてはなら ない学校であるか/湊川の若い教師たちに/学校が学校 であるためには/教育に携わる者が心すべきことは/定 時制高校の教師として今考えること/同和教育について 知らなくても教師にはなれるが、同和教育について知 なければ教師はつとまらない/「同和」教育の初心を貫 く/人間を作る
劇的なるもの
オモニたちの卒業/私の学校—ウリエハッキョ/星めぐ りの歌/星を集めるうた/人 間の街・神戸1995/遙か なる日本を生きて/湊川、私の学校
〈朝鮮〉と〈日本〉の出会うところ
朝鮮〉と〈日本〉の出会うところ(1)/〈朝鮮〉と 〈日本〉の出会うところ(2)/〈朝鮮〉との出会い、 私の場合/私の朝鮮語
阪神大震災と長田
街が消えた、人間が残った/阪神大震災と湊川
エピロオグ
出会いも、別れも、あの旧い校舎とともにあった
あとがき
前書きなど
教師の原像、詩人の原像 金時鐘(詩人)
問いを忘れないのではなく、登尾明彦は自己への問いを生きている人である。三十年も教職にたずさわっていながら、なぜ教師になったのか、は今もって止むことがない繰り言のような自問であり、部落も朝鮮も、はたまた身障生徒、勤労生徒の重い現実も、それらを丸ごと抱える湊川高校の存在理由と相俟って、彼には自明の教育実践の課題のうちのものである。三十数年もまえ、一切の差別を許さないという教育実践を手探りで始めていったのは、経営困難校で知られる湊川高校の教師たちであったが、そのただ中で人権意識を深めていった登尾明彦にして、社会的弱者の側に自分がなぜ立っているのかは今なおゆるがせにできない、自分自身の内奥の問いなのだ。
全人的な教育実践に呼応して、私も十七年間湊川高校の教員を務めた。教師は詩人であるべきだというのが私のかねてからの持論だが、赴任当時すでに、登尾明彦は『パンと貝殻』という詩集を出していた教師であった。恵まれない体躯でゴンタたちのあららいだ声に眼をしばたかせながら向き合っていた彼を、職を辞して十年にもなるが忘れられない。教師の原像だけでなく、私はむしろ在るべき詩人の原像をもそこに見てきたようで、想い起こすたびに瞼がうるむ。