目次
はじめに
I 少数民族としての中国ムスリム
第1章 中国ムスリムとは何か?――その歴史と現況
第2章 民族自治地方のひろがりと多様性――新疆ウイグル自治区と寧夏回族自治区
第3章 回族とは何か?――民族識別工作とエスニシティ
第4章 ウイグル族――新疆ウイグル自治区の「主体民族」
第5章 カザフ族とクルグズ族――テュルク系遊牧民族
第6章 モンゴル帝国の遺産――モンゴル語系ムスリムの今昔
第7章 サラール族――中央アジアよりのムスリム・ディアスポラ
【コラム1】中国のムスリマ(ムスリム女性)の自尊・自立への旅
II ことばと文化
第8章 経堂語とその周辺――回族が使う言葉
第9章 小経――アラビア文字で漢語を書く
第10章 試練に立つことば――「現代ウイグル語」の歴史と現在
第11章 張承志――回族作家、その人道主義とムスリム意識
第12章 現代ウイグル文学における「過去の記憶」――オトクゥル『足跡』が映し出す世界
第13章 ウイグルの音楽とおどり――多様な音楽スタイルの諸相
【コラム2】ことばと音楽が織りなす人間模様
III 都市・農村のくらし
第14章 ジャマーア――ムスリムの伝統的コミュニティ
第15章 揺りかごから墓場まで――命名式・割礼・婚礼・葬礼
第16章 家族と親族のつながり――人口政策の変化のなかで
第17章 変わる結婚事情――回族の婚姻慣行
第18章 清真――イスラームの食文化
第19章 カシュガルの職人街――オアシス都市とその住人
第20章 カシュガルの伝統住居――ウイグルの住まい
第21章 新疆の遊牧民――カザフ、クルグズ、モンゴルの定住化をめぐって
第22章 バザール――オアシスの市場
【コラム3】葡萄棚の下のバラカ
IV イスラームを生きる人々
第23章 清真寺とメスチト――中国のモスク
第24章 経堂教育――清真寺におけるイスラーム教育
第25章 中国イスラームの経典――中国に流布したアラビア語・ペルシア語文献
第26章 回族の女寺と女学――女性専用のモスクとマドラサ
第27章 年中行事――イードと預言者聖誕祭マウリド
第28章 ゴンベイ――回族が参詣する聖者廟
第29章 マザール――新疆の聖者墓廟
第30章 ムスリムのシャーマニズム――中国西北の民間信仰
【コラム4】「にぎやか」なお墓参り
V 中国史のなかのムスリム
第31章 中国におけるイスラームの伝播と拡大――唐代から元代のムスリム
第32章 中国史に名を残したムスリム――宋代から近代まで
第33章 回儒――中国イスラームの思想的営為
第34章 門宦――神秘主義教団の歴史的展開
第35章 回民蜂起――清朝政府とムスリムと回民
第36章 清朝の新疆征服・統治とイスラーム聖者裔の「聖戦」――異教徒の支配のもとで
第37章 新疆ムスリム反乱とヤークーブ・ベグ政権――束の間のムスリム政権時代
第38章 清朝とロシア帝国の狭間で――18・19世紀のカザフ
第39章 回民軍閥――民国期の寧夏・甘粛・青海を支配したムスリム
第40章 「愛国は信仰の一部」――回民のイスラーム近代主義
第41章 侮教事件――中国近代史上の回漢対立
第42章 新疆のジャディード――「ウイグル」たちの近代的教育運動
第43章 テュルクかウイグルか――近代ウイグル人のアイデンティティ
第44章 新疆「イスラーム法廷文書」の「出現」――埋没した歴史へのアプローチ
第45章 日本の回教工作――日中戦争とムスリム
【コラム5】中国ムスリムの武術
VI 国家・社会・イスラーム
第46章 イスラームを信仰する共産党員――無神論と宗教のはざまで
第47章 中国共産党とイスラーム――宗教政策の歴史的変遷
第48章 黄土高原で聞いたアラビア語――民間のアラビア語学校
第49章 ウイグル伝統医学――改革開放とともに興隆するウイグルの文化
第50章 人口政策とムスリム――人口大国の苦悩
第51章 イスラーム復興と脱宗教化――改革開放期の西北地方を中心として
第52章 民族文化の「復興」と民族史の強調――ウイグル族知識人の活動
第53章 ウイグルのナショナリズム――新疆と「和諧社会」
【コラム6】中国民族学の「エスニック・コリドー」理論とムスリム宗教文化の研究
VII 移動とネットワーク
第54章 清真寺をむすぶネットワーク――移動するムスリム・エリート
第55章 回族か? 回教徒か?――台湾回民のアイデンティティ
第56章 タイの雲南系回民――多様な越境経験を経た定住化
第57章 回民蜂起の流亡者――ミャンマーの雲南回民
第58章 旧ソ連領中央アジアのウイグル人――新疆からの分断と交流の再開
第59章 中央アジアのドゥンガン――国境の其方に移住した回回の末裔
第60章 中東へのまなざし――マッカ巡礼、留学、ビジネスチャンス
【コラム7】台湾における華僑ムスリムの移民コミュニティ
中国のムスリムを知るための用語集
前書きなど
はじめに
中華人民共和国は、漢族と55の少数民族が暮らす多民族国家であると同時に、道教、仏教、キリスト教、イスラームやそのほかの民間信仰をかかえる多宗教国家でもある。歴史上、漢族が政治的にも文化的にもマジョリティとなることが多かったが、現代中国に暮らす少数民族の存在を無視して中国を語ることはできない。2008年「チベット騒乱」、2009年「ウルムチ騒乱」、2011年「内モンゴル騒乱」が発生した際、メディアによって頻繁に報道されたように、中国の少数民族の動向は世界各国で注目の的となっている。とくに、新疆ウイグル自治区をめぐる民族問題を背景とした諸事件については、日本国内の新聞・雑誌やインターネット上でほぼタイムリーに報道されるようになっている。近年、研究者やジャーナリストだけでなく、一般の人々のあいだでも中国のウイグル族の認知度が高まりつつある。
そもそも日本国内では、NHKの特集番組をきっかけとして、1980年代初頭からいわゆる「シルクロード・ブーム」がおこり、中国の陝西省、甘粛省、青海省、新疆ウイグル自治区などの西北地方がひろく知られるようになった。とくに、ウイグル族が数多く居住する新疆ウイグル自治区は、外国人旅行者が足を運ぶ定番スポットとなり、現地で実際にウイグル族と接した日本人も少なくない。また、1980年代以降、中国から日本へ留学するウイグル族の留学生も増加しており、そのなかには卒業後、日本国内で就職したり、起業したりする人たちもいる。現在、日本国内にはウイグル・レストランが数店舗あり、故郷の味を懐かしむウイグル族だけでなく、エスニック料理を楽しむ日本人も顧客となっている。このほか、ウイグル族の伝統音楽や民族衣装を紹介するイベントも日本国内で開催されることがある。このように、日本人が「シルクロード」の人々と直接知り合う機会が増えており、また、身近な存在となりつつあることがわかる。
ただし、「シルクロード」を愛する一部の日本人は別として、中国にイスラームを信仰する少数民族が居住していることは現在でもあまり知られていない。中国政府の公式見解によれば、中国ムスリムの人口は2300万人以上で、10の少数民族が存在するといわれている。詳細については各章に譲るが、中国ムスリムは、漢語を母語とする回族、テュルク系のウイグル族、ウズベク族、カザフ族、クルグズ族、タタール族、イラン系のタジク族、モンゴル系の東郷族、保安族にわかれる。中華世界で形成された回族が全国各地にひろく居住する一方、そのほかの諸民族は新疆ウイグル自治区、青海省、甘粛省などに集住する。とりわけ、回族は人口でウイグル族を上回り、言語・文化的にも中国のムスリムとして注目されるにふさわしい存在であるにもかかわらず、日本ではほとんど知られていない。
中国のムスリム諸民族は中国政府によって正式に認定された少数民族であるが、じつは、かれら以外にもイスラームを信仰する人々はいる。たとえば、回族との結婚をきっかけとしてイスラームに改宗した漢族は多い。いわゆる漢族ムスリムである。しかし、戸籍上、漢族ムスリムはイスラーム改宗後も漢族のままであり、原則、ムスリム諸民族の戸籍に変更することはできない。チベット族やモンゴル族にもムスリムがいるが、同じである。このように、民族戸籍を基準とした場合、中国ムスリムの総人口を正確に把握することはできないのが現状である。
(…中略…)
本書をとおして、一般読者は、中国やムスリムという言葉に付与されがちなステレオタイプを打ち崩し、中華人民共和国および隣接する東南アジア諸国や中央アジア諸国に暮らす中国ムスリムやその移民の子孫の実像に迫ることができるはずである。また、中国ムスリムは単なる少数民族であるだけでなく、宗教的マイノリティでもある。その意味においては、中国ムスリムは、中国の歴代王朝や国民国家のありかたを多角的に理解するうえでも、また、イスラーム世界の地域的特性や変容を認識するうえでも、いわば鍵を握る存在である。この点においても本書の刊行は一定の意味を持つはずである。
(…後略…)