目次
はじめに
1 混迷と停滞――一六世紀から一八世紀までのエジプト
2 近代への覚醒――ムハンマド・アリー朝の成立
西洋の衝撃
ムハンマド・アリーの登場
シタデルの惨劇
3 帝国への道――強兵策と領土拡大
近代的常備軍の誕生
ギリシャ戦役
第一次シリア戦役
栄光
4 挫折――英国の壁
火種:インド・ルートと繊維摩擦
喪失:第二次シリア戦役
5 行財政改革――近代的中央集権国家の誕生
財政基盤の確立
行政機構の整備
6 近代化と殖産興業――経済的自立の模索
先進技術の移入と教育振興
農業振興とエジプト綿
工業化と貿易振興
7 ムハンマド・アリーの時代――その光と翳
通商産業政策の蹉跌
エル・キビール
8 反動と転機――アッバースとサイード
暗雲
反動
薄日
転機:スエズ運河
転落の予兆
9 脱亜入欧――イスマーイールの挑戦
総督から副王へ
不平等条約改正交渉
領土拡張と奴隷交易
欧化政策
頂点:スエズ運河開通式典
10 転落――植民地化への道
バブル崩壊
財政破綻
揺らぐ政権基盤
ヨーロッパ内閣
廃位
イスマーイールの功罪
エジプトと日本:近代化の明暗
11 最初の革命――そしてその挫折
(一)思想家 アフガーニー
点火
後継者
(二)革命家 アフマド・オラービー
革命への道
民族主義政権の成立
挫折:テル・エル・ケビール
(三)革命家 マフディー
「救世主」の登場
ハルツームの陥落
後継者:アブドゥッラーヒ
挫折:オムドゥルマーン
(四)実務家 クローマー卿
英国統治の始まり
戦後復興
ディンシャワーイ事件
12 第二の革命――独立回復への長い道
(一)不世出の革命家 ムスタファ・カーメル
言論による革命
国民党の結成
(二)反骨の副王 アッバース・ヒルミー二世
反発から協調へ
協調から決定的対立へ
(三)独立の父 サアド・ザグルール
第一次世界大戦とエジプト
民族指導者への道
一九一九年革命
独立後の闘争
13 落日に向かう王朝――ファルークの時代
(一)明るい滑り出し
正式独立の達成
民族資本の台頭
(二)暗転
二月四日事件
大戦間のエジプト:長期不況と学園紛争
新しい政治勢力の台頭
(三)第二の衝撃 パレスチナ戦争
ナハスとシドキー
パレスチナ戦争
ファルークの変貌:略奪婚と巨食
14 エジプト革命――王朝の終焉
終わりの始まり:カイロ暴動
一九五二年七月二三日
15 ナセルの時代
共和制移行
運河国有化
獲得
アラブ民族主義:絶頂から転落へ
アラブ社会主義:経済失政
破綻:第三次中東戦争
16 サダトの時代
17 ムバーラクの時代とこれからのエジプト
(一)一九八〇年代:多難なスタート
(二)一九九〇年代:転機となった湾岸戦争
外交の成功と経済の再建
イスラーム主義勢力との対峙
(三)二〇〇〇年代:政権延命・継承への試み
権威主義的体制
顕在化する行き詰まり
二〇〇五年の「民主化」とその反動
(四)二〇一一年:ムバーラク退陣とこれからのエジプト
あとがき
関連年表
主要参考文献・資料
掲載写真・図版出所
索引(事項/人名/地名)
前書きなど
はじめに
今日、エジプトが中東・アラブ世界で中核的、主導的な役割を果たしている「中東の大国」であることに異議をとなえる向きは少ないであろう。ナセル(ガマール・アブドゥンナースィル、一九一八~七〇年)時代の「アラブの盟主」という言葉こそ色褪せたが、依然としてエジプトは湾岸危機・戦争、中東和平問題、そして国際テロ対策と様々な局面で、中東・アラブ諸国間を、あるいは中東・アラブ諸国と欧米諸国との間を仲介する重要な役割を担い続けている。だが、エジプトは人口でこそアラブ諸国全体の四分の一を占めるものの(七七八五万人、二〇〇七時点)、軍事的、経済的には必ずしも「大国」ではない。軍事力では湾岸戦争以前のイラクには及ばず、経済力では富裕なペルシャ湾岸産油国にはるかに及ばないばかりか、一人当たりのGDP(国内総生産)ではレバノンやヨルダンといった非産油国にも後塵を拝している。
それでは、エジプトはなぜ「中東の大国」であり続けられるのだろうか。その要因としては、中東・アラブ諸国で最も長い歴史を持つ近代的教育制度が生み出した豊富な人材や思想・文化・情報などの発信力、同じく長い歴史を持つ中央集権的行政機構と優秀な高級官僚の存在、そして豊かな農業資源に裏付けられた産業の幅の厚さなどがあげられる。これらは、フランスが冷戦後、唯一の超大国である米国に対抗しうる政治・外交力を持ち得ている要因とも共通している。こうしたエジプトのいわば「懐の深さ」をもたらした諸要因は、実はそのほとんどが一九世紀に行われた一連の改革に大本があり、そしてその改革は一八〇一年にナポレオンのエジプト占領に対抗すべくオスマン帝国が派遣した遠征軍の一下級士官としてエジプトの地を踏み、ナセルが倒すまで続く王朝を築いたひとりのアルバニア人に端を発する。その人物こそがムハンマド・アリー(一七七〇頃~一八四九年)である。
ムハンマド・アリーは、ほとんど徒手空拳の状態から権謀術数の限りを尽くしてエジプトの支配者の地位にのぼり、明治維新に相当する諸改革を一代で成し遂げ、混沌とした無政府状態にあった中世のエジプトを近代的な常備軍と行政機構を持つ中央集権国家につくりかえた。また、長繊維綿花の栽培導入など今日に至るまでエジプトがその恩恵を被っている諸産業を育成した。ヨーロッパ列強の介入によってムハンマド・アリーの国家主導の近代化政策が挫折を余儀なくされたあとは、息子のムハンマド・サイード(一八二二~六三年)や孫のイスマーイール(一八三〇~九五年)などが今度は開放経済体制のもとで近代化政策を引き継ぐ。しかし、この後継者たちの試みも財政破綻によって挫折し、結局、一八八二年からエジプトは英国の実質的な植民地と化すことになる。
(…中略…)
こうしたいわば「下からの改革」を模索するなかで、エジプトでは、(1)ヨーロッパ興隆のエネルギー源を「ナショナリズム」にあるとみて脱宗教的な国民国家の建設を目指すものと、(2)イスラームの再生に活路を見出そうとするものというふたつの大きな思想潮流が生まれた。前者は、エジプトという既存国家の枠組みのなかで民族自立を図ろうとする「一国民族主義」から、のちにアラブ世界の統一を目指す「アラブ民族主義」に主役が移り、ナセルの主導のもと一九五〇年代から一九六〇年代前半にかけて最大の高揚期を迎えることになる。後者は、ムハンマド・アブドゥフ(一八四九~一九〇五年)とムハンマド・ラシード・リダー(一八六五~一九三五年)という近代イスラーム世界が生んだ最も偉大な思想家たちがエジプトを拠点に提唱し、一九二八年に「現代イスラーム史上、最大の復興運動」と言われるムスリム同胞団を生み、そして世界を揺り動かしているイスラーム主義に受け継がれている。近年のイスラーム主義の高まりは、ナショナリズムを標榜した世俗主義的な政権の諸政策の行き詰まりとともに生まれてきたものである。
「歴史は繰り返す」とはよく言われるが、ムハンマド・アリー朝期のエジプトで起こった様々な事件は、現在の世界の動きとも多くの共通点を持っている。冷戦の終結とともに欧米のキリスト教・ユダヤ教世界ではそれまでの共産主義に代わってイスラーム、とりわけイスラーム主義を脅威と見なす傾向が強まっている。他方、イスラーム世界ではグローバリゼイションの名のもとに逆に米国を中心とする欧米文明に飲み込まれるのではないかとの警戒感が強く、これがイスラーム回帰の大きな原動力ともなっている。同様に、一八八〇年代にエジプトでナショナリズムを掲げたオラービー革命が、エジプト統治下のスーダンでイスラーム復興を掲げたマフディー運動が盛り上がった際、ヨーロッパ世界ではイスラームの脅威が声高に議論され、エジプトなどイスラーム世界ではヨーロッパ列強が「非欧米世界を文明化する」という「白人の重荷」(ラドヤード・キプリング)の美名のもとに植民地化を進めるなか、キリスト教による脅威が叫ばれた。まさに、「文明の衝突」である。また、英国がオラービー革命に対し軍事介入する際に使ったロジックは「テロとの戦い」であり、このとき英国が他の列強の支持を得られず、単独での武力行使に踏み切った経緯は、二〇〇三年三月に米英両国が国連決議を待たずにイラク攻撃を行った状況とも類似している。そして、スーダンでおよそ一六年間、独自のイスラーム国家を築いたマフディー運動は、一九九〇年代半ばにアフガニスタンで生まれたタリバン(ターリバーン)政権と共通するものを持っている。
さらに、現在、中東・北アフリカ諸国ではオイルショック以降の医療水準の向上などに伴う人口急増により若年層の失業問題が深刻化し、これが急進的なイスラーム主義勢力の伸張を招く大きな要因となっているが、ムスリム同胞団を生んだ一九二〇年代後半から一九三〇年代のエジプトもまさしく同じ問題に直面していた。同様に、軍事・経済面での対米依存と国民の反米感情との板挟みという穏健派アラブ諸国が共通して抱えてきた悩みについても、エジプトは相手が英国に代わっただけで同じく一九三〇年代には直面していた。すなわち、現在の中東・北アフリカ諸国が抱えている諸問題は何も新しいものではなく、少なくともエジプトの場合には七〇年以上も前に経験済みのものなのである。言い換えれば、現在の中東を中心とする世界の動きを解く鍵(控えめに言ってもその多く)は、一九世紀から二〇世紀前半にかけてのエジプトにあるといっても言い過ぎではない。
(…後略…)