目次
日本語版への序文
謝辞
序章
第一章 学校は社会階層を結ぶ「エレベーター」としての機能を果たせなくなる
この父にして、この子あり
不平等に供給される学位という財
学位の商品としての価値は減価する
学位の相対的重要性
ヨーロッパにおける能力主義の変化
第二章 能力と社会的公正
学校での能力の不確実性
学力と職業上の能力
社会的格下げの両義性
職業人にとってのさまざまな能力
第三章 さらなる教育、何のため?
経済的・社会的恩恵とは何か
「経済からの要求」という厄介なお願い
比較では、口実は見つからない
把握することの難しい「社会的効果」
「学歴偏重」が教育を駄目にするとき
第四章 実社会参入についての再考
教育の分離と進路/選抜
より職業的で責任のある方向性
社会人としての生活の魅力を高める
結論
付録
訳者あとがき
前書きなど
日本語版への序文
本書は、二〇〇六年初頭にパリで出版された。フランスでは、教育の拡大は例外なく発展を促すとする考えにコンセンサスが得られているが、筆者はこの命題に一石を投じる目的から、本書を執筆した。そこで、学業期間の長期化がもたらす「効果」について、客観的な分析を試みたのである。ところで、ここ四、五○年来のフランスにおける学業期間の長期化には目覚しいものがある。中等教育修了後に取得する学位であるバカロレアの保有者の割合は二倍に増えた。この割合は現在、およそ六三%であるが、政府はこれを八〇%にまで引き上げようと目論んでいる。学業期間の長期化の「効果」については、個人レベルと同時に、社会レベルでも評価するべきであろう。個人レベルでは、教育レベルの上昇が個人の社会統合の機会を増やしているのだろうか。社会レベルでは、国民の教育レベルの改善は、経済発展を促し、社会的不平等を削減し、健全な市民社会を築くことに貢献しているのであろうか。
筆者は、こうした複雑な疑問に対し、明確な答えを提示する目的で本書を執筆したのではない。また政治的保守派からは、「同一の中学校(college unique)」(一九六〇年代後半から始まった、生徒全員に同一の教育を施す中等教育。年齢は一一歳から一五歳)は生徒の学力レベルを引き下げてしまうとする批判があるが、筆者はこうした中等教育の開放政策に対する批判に答えるために本書を書いたのでもない。もちろん、こうした批判に対しては、豊かな国においては一六歳までの全員に教育を施す教育政策は可能かつ有益であることから、「同一の中学校」政策は擁護できるであろう。こうした効果が確認できなくなる、またはプラスの要素よりもマイナスの要素が強くなり始める限界分岐点について考えてみるべきだ。フランスでは、「さらに多くの」教育を施すことは当然良いことであるとして、とくに高等教育における学業期間の長期化を推進し続ける方針に対して絶大なるコンセンサスがあるが、本書の意義とは、こうした政治的意向に疑問を呈するためである。
本書は、学校は「社会的エレベーター」(訳注:人々の社会移動を促す装置)であるとする、フランスで流布している学校のイメージについて検証することからスタートする。これまでの五〇年間で、教育レベルは飛躍的に上昇したが、教育レベルの急上昇と同等の社会移動は確認されていない(とくに中流階級の子どもたちの機会増大は確認されていない)。この事実はなによりもまず、フランスの教育を万能とみなしがちな傾向に反して、雇用を創出するためには学位を生産するだけでは不十分であることを物語っている。つまり、世代の推移にともなう社会移動とは、なによりもまず経済的背景が生み出す雇用環境に左右される、ということだ。もう一つの理由としては、学位へのアクセスが社会的に非常に不平等なままであることが挙げられる。フランスではバカロレアに到達する可能性は、父親の属する社会的階級の差異によって二倍の開きがある。最後に三番目の理由として、取得する学位によって得られる社会的地位は、学位の配給具合に応じて劣化する傾向にあることが挙げられる。これは社会的格下げ(または学位価値の減価)という用語で言い表すことができる。つまり、学校が子どもたちの進学機会を平準化できない場合や、取得した学位の価値が減価する場合には、もっとも資格が必要とされる職種の雇用の伸びが尽きた状況においては、学校機関がもっとも恵まれない社会層に属する子どもたちを、効率よく社会的に引き上げることは難しいということである。
(…後略…)