前書きなど
はじめに
この本を手にとったら、ページをめくって目にとまったところから読み始めればよい。目次の項目で目がとまる人もいれば、本文に散りばめられた無数の写真のなかの一枚に目がとまる人もいるだろう。あるいは文中のある単語に惹かれる人もいるにちがいない。目にとまるものがあったら、そこから眺め、読み始めている自分を発見するであろう。そのような本に仕立て上げたと自負している。
わたしは大学では歴史を学んだことがない。歴史というよりは歴史学のような難解な文章を読むのが苦手であったからである。日本で生まれ育ち、日本・韓国・アメリカの教壇に立ち、複数の国の文化や歴史に接すると、どちらかに偏っているような記述が目につき、客観性の乏しさを感じるようになった。
一九六四年、日本から初めて自分の国である大韓民国(韓国)に旅立つとき、関係者から「朝鮮」と言ってはいけない、「韓国」と言うように教えられた。ところがソウルでは「韓国」というのだが、農村では「朝鮮」と言うのである。そこで歴史学者たちに「韓国人」と「朝鮮人」の使い分けを聞いてみたが、納得のいく答を得られなかった。そしてその出典をみつけることになる。「韓国併合」条約締結の条文に御名御璽(明治天皇)の名で「韓國ノ國號ヲ改メ朝鮮ト稱スル」とする国号改称の条項を発見した。大日本帝国によって改称され、その後「韓国(人)」が「朝鮮(人)」に呼び変えられていった。韓国には「国」の字があるから目障りだったのである。
こうした疑問を自分で解いているうちに歴史を語り、書くようになったが、朝鮮から古朝鮮を知り、古朝鮮の始まりである神話と神話的世界に出合い、そのおもしろさに触発されたからである。国が産声をあげる歴史には必ず神話的世界が登場する。神なのか人間なのか見分けのつかない超人的な人間が国を拓いていく物語から歴史がスタートしている。
地球上に神話的彩りのない建国史があるとすれば、それは後世何らかの理由で消えたのである。日本は記紀神話で語られるように神話の宝庫であるが、二十世紀にその神話をアジア侵略や「日鮮同祖論」を立ち上げて「韓国併合」の道具に用いた。その戦後処理のつたなさから神話はいまも遠ざけられている。もったいない。韓(朝鮮)民族は古朝鮮建国の檀君(タングン)神話を誇示するが、それを他民族に強いたり侵略の道具にしたことがないので自然体で神話を語れるのである。
この本は古朝鮮が生まれるころから、一九五〇年に起きた朝鮮戦争までの韓国の五千年の歴史を、66章で仕立て歴史の世界へ誘っていく。章の順序にとらわれず、関心のあるところから読んでいけばいつの間にか66章を読み終え、韓国の歴史が姿を現すにちがいない。ぜひ試していただきたい。
わたしが‘History’(歴史)という単語に出合ったとき、単語の頭の‘Hi’とそれにつづく‘Story’を切り離して「歴史とは‘Story’(物語)なのだ」と声をあげて喜んだ。それは中学生のときであるが、以来歴史を‘Story’として楽しむようになり、時とともに歴史的事実とはなにかに関心が向き、既刊の歴史書では応えてもらえない問題と対峙し、それを自分で解きほぐしているうちに自分の感性で歴史を書き、語るようになっていた。
歴史というと民族や国家が大きく絡むが、人間の行為や行動が歴史の始まりなのである。人間を外した歴史などは存在しないのに、なぜか民族や国のような集団が主人公になってしまう。集団が主人公になるとその客観的事実とはなにかをさまざまな記録から探り出して、ああだこうだと分析を始める。本書を読み終えてからそうした歴史科学書を読めばそれらは難解ではなくなる。
本書はその前の段階で、タイムトンネルを通って歴史物語の旅を楽しめるよう心がけたが、フィクションを散りばめた歴史小説ではない。事実にもとづき歴史をかみ砕いている。そして「歴史の曙」「三国時代から統一国家へ」「高麗時代」「朝鮮王朝時代」「『開港』から大韓帝国末まで」「植民地からの解放」「朝鮮戦争から休戦まで」の七つに時代を区分した。どの国も国の始祖を神話的に装飾することで自国の存在を高め、拡大しながら高句麗・百済・新羅の三国時代を形成し、覇を競い合う中で六六八年統一新羅が樹立される。うら若き少年集団の花郎徒が統一新羅の形成に大きな影響を与えた。三国統一の過程で今日で言うところの韓民族を意識するようになる。その時期をわたしは民族意識の萌芽とみている。一つの王朝が千年をもちこたえることは至難なことである。統一新羅の末期には高麗と後百済が興って後三国時代に突入するが、統一新羅は高麗王の王建(ワンゴン)に政権を移譲し、高麗は仏教を国教に定め、モンゴル(元)の侵攻と圧力を仏力をもって防ぐ。世界遺産になった八万大蔵経の制作過程から、金泰亨(キムテヒョン)は艱難辛苦(かんなんしんく)を経て国体を維持する歴史を民族魂を奏でながら語る。
国体を維持できなくなった高麗から政権を移譲された李成桂(イソンゲ)将軍が、漢陽(ハニャン)(現在のソウル)に都を開き国号を朝鮮とする。朝鮮王朝は高麗の国教であった仏教に替えて儒教を国教に定め、学問(朱子学)を重んじ、科挙制度を重要視し、新たな貴族(両班(ヤンバン))による儒教社会の形成をめざす。その初期には文治政治の象徴である四代国王世宗(セジョン)王が国字のハングルを創成する。が、豊臣秀吉率いる日本の朝鮮侵略によって国土は廃墟と化し、豊臣政権崩壊後、徳川家康の発信からのちに善隣友好の象徴になる江戸時代の朝鮮通信使の往還が始まった(最初の三回は「朝鮮通信使」ではなく「回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)」)。しかし、日本の明治維新によって大日本帝国による新たなる朝鮮侵略がはじまる。この時代を今回唯一の日本人執筆者である小幡倫裕(おばたみちひろ)は日韓両国を客観的に捉えながらその歴史を洞察する。
欧米列強国の外圧によって明治維新を成し遂げた日本は、欧米の方法をそのまま朝鮮に向け、力で朝鮮の「開国」を迫り、韓半島から清国とロシアの勢力を駆逐し、「韓国併合」へと歩を進めた。十九世紀後半から始まる日本の侵出をめぐって巻き起こる朝鮮の激動期を内と外から解き、有史以来初めて亡国の体験を強いられた原因と理由を事実をふまえて崔在聖(チェジェソン)は洞察し、独立運動に目を向ける。
一九四五年八月十五日、植民地から解放され独立を勝ち取った韓民族は、アメリカとソ連の冷戦抗争に巻き込まれ、一九四八年、ソウルとピョンヤンを首都とした大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の二つの国家が誕生する。その翌々年、南北が戦う朝鮮戦争が勃発。ドイツでその戦争をテーマにして博士号を得た鄭永順(チョンヨンスン)が、国際的視座から朝鮮戦争を解析する視線は新鮮である。彼女との出会いから、わたしは本書に五十余年前に起きた朝鮮戦争を加えることにした。朝鮮戦争を加えた通史は非常にめずらしいと思う。
二〇〇二年頃、明石書店の石井昭男社長から『○○を知るための××章』の韓国の歴史編を依頼され、それに『神話と考古学』と『文化と芸術』を加えたシリーズをわたしは提案し、了承された。本書はその第一巻であるが、シリーズを決めてからまもなく、日韓共通歴史教材づくりの仕事の関係で鄭永順に出会い、談笑しているうちに彼女に韓国側の二人の執筆者を推薦していただくことにした。彼女の内と外の目のバランス感覚に新鮮さを感じたからである。そして日韓両国の目、複眼思考で文化と歴史を探究している小幡倫裕に参加してもらった。わたしを除く執筆者の平均年齢は四十代であるが、そこには十年後に現役で自分の書いた本と対面できる世代に書いていただき、その責任を感じてほしいという思いが強く働いている。
二〇〇七年七月 台風四号去りて
編著者 金両基(キムヤンキ)