紹介
「音文化(おんぶんか)」という考え方は、音が作り出すコミュニケーションを「音楽」という狭い枠から解放して、自然音や聴覚以外の諸感覚、身体性などと係わらせて理解すること、および音のコミュニケーションを社会や政治、歴史の脈絡のなかでとらえ返すことを見据えています。つまり、音のもつ身体文化的豊饒性を解き明かすこと、および、音が有する社会造成能力を見極めることが、「音文化」という概念の使命であり、それを13人の著者それぞれが、応用・発展させた成果が本書です。
アラブ世界の文化を、グローバル・コミュニケーションという独自の視点に立って、ヨーロッパとの関係にも目を配り、「音」の次元から考察した斬新な内容となっています。扱われる範囲が、歴史、伝統、理論、演奏、地域性、宗教、言語等におよぶと同時に、古典音楽から、儀礼や現代のポップ音楽やダンスについても幅広く論じられている点が特徴です。音楽に対する固定概念を解き放つ、斬新かつ気鋭の論集です。最終章には内容の理解を深めるための座談会も収録しました。
受賞
本書は、2011年の第28回 田邉尚雄賞〈(社)東洋音楽学会〉を受賞しました
受賞理由は以下の通りです。
本書は、音によるコミュニケーションの力をアラブの社会的・歴史的文脈で捉え、13名の著者がそれぞれの専門研究の立場から論じたものである。アラブの音文化に関する日本語文献がほとんどない現状において、本書の学会への貢献は貴重である。特に注目すべきは、本書がアラブ音楽の紹介や解説にとどまることなく、言語も音楽も多様な中で共通の価値基準や感受性がどのようにはぐくまれるのか、という独自の視座で問題設定を行い、この問題意識を巻末の座談会を含め、総ての執筆者が共有した上で、本書の全体を貫いている点である。この研究方法は、今後の共同研究や共著書のあり方に、重要なひとつの方向性を示すものとして評価できる。
目次
はじめに(堀内正樹)
第1章 真正な音をもとめて
アラブ音楽会議でバルトークは何を聴いたか?(水野信男)
「古典トルコ音楽」とは何か(斎藤完)
第2章 音のしくみ
中世イスラームの哲学者たちが語る音楽論(新井裕子)
アレッポの伝統に基づく東アラブの古典的マカーム現象入門(飯野りさ)
都市に伝わる歌唱形式「イラキマカーム」(樋口美治・樋口ナダ)
アンダルシア音楽のしくみ(堀内正樹)
第3章 音からからだへ
共有されるマカーム美意識—アレッポの事例(飯野りさ)
声が運ぶ聖典クルアーン(小杉麻李亜)
近・現代アラブ歌謡二人のディーヴァ—レバノン的な音楽文化(青柳孝洋)
儀礼における身体技法とその展開—トルコ・アレヴィーのセマー(米山知子)
ベリーダンスを踊ると体が笑う—アラブから世界へ(西尾哲夫)
第4章 音のかたち
「個性」はいかに研究可能か(記述可能か)?—イラン音楽を事例とした一試論(谷正人)
アンダルシア音楽を計量する(小田淳一)
第5章 座談会
座談会1 アラブ音楽入門—マカームとは何か? イーカーウとは何か?
座談会2 中東の近・現代音楽をめぐって
おわりに(水野信男)
前書きなど
本書は、大阪の人間文化研究機構国立民族学博物館で二〇〇六年度から二〇〇九年度にかけての三年半にわたっておこなった共同研究『アラブ世界における音文化のしくみ』(研究代表者・堀内正樹)の成果をまとめたものである。この共同研究は計九回の研究会を大阪と東京で開き、「アラブ音楽」を実質的な主題とした。しかし本当の狙いは「アラブ」の研究でも「音楽」の研究でもなく、むしろ「アラブ」と「音楽」という両方の概念を解体して、新たな文明論的展望を得ることにあったといってよい。大胆な言い方をすれば、片や、これまでもっぱら書かれたものや印刷されたものに依存した従来のアラブ研究・イスラム研究・中東研究が生み出した「アラブ」認識のズレを、音と声を強調することによって白日の下にさらしたかったのであり、他方では、芸術やエンターテインメントといった狭い不自由な枠に音を閉じこめようとする「音楽」研究をはじめとして、それと同じように人々の生活領域を「宗教」「文学」「思想」「歴史」「民族」「政治」などに切り分けて、あたかもそれぞれを別々の現象であるかのように仕立て上げる蛸壺的な学問研究の姿勢にも批判の矢を放ちたかったのである。だが「音文化」という私たちが掲げた共同研究の標題には、そのような批判にとどまらず、さらにその先の理解へ進もうとする建設的な意味が込められている。
そもそもこの「音文化」というまだ多少聞き慣れない言葉は、日本ではおそらく文化人類学者の川田順造氏が、一九九〇年代初頭にはじめて明確な定義と意図をもって提唱したものである。氏の狙いは、音が作り出すコミュニケーションを「音楽」という狭い枠から解放して、自然音や聴覚以外の諸感覚、身体性などと係わらせて理解すること、および音のコミュニケーションを社会や政治、歴史の脈絡のなかでとらえ返すことの二点であった。つまり音のもつ身体文化的豊饒性を解き明かすことと、音が有する社会造成能力を見極めることが「音文化」という概念の使命なのであり、私たちの共同研究もこの意図を継承しつつ、それを私たち流に応用・発展させたわけである。その川田順造氏も参加し、本書の編著者の一人である西尾哲夫氏が主催した『イスラーム世界の音文化』という学際的なシンポジウムが一九九七年に開催されたことがあり、そこには、やはり本書の編著者である私(堀内)と水野信男氏および共同研究メンバーの新井裕子氏が加わった経緯がある。そのときの成果の一部が日本民族学会(現日本文化人類学会)の機関誌『民族學研究』六十五巻一号(二〇〇〇年)に「音文化の地域的展開を探る—イスラームを手がかりに」というタイトルで特集として企画され、川田氏の序文とともに四本の論文が掲載された。本書の先駆けとしてこの特集をあわせてお読みいただけば、私たちの意図するものをよりよくご理解いただけるものと思う。
とはいえ、今回の共同研究は新たなメンバーを数多く迎え、総勢十四名の態勢で、実質的に新たなスタートを切った。その活動の推進力となったのは、人々の生活への誠実さであり、自分たちの経験への誠実さであり、ナマの人間に対する誠実さである。私たちは年齢も職業も経歴も国籍も宗教もまちまちだった。これまでの人生経験や生活の舞台も決して一様ではない。それどころか、さまざまに異なった立場と環境のもとで生きてきた。にもかかわらず私たちに共通していたのは、音や声に対する並々ならぬ関心はもちろんのこと、それ以上に「なにか違うぞ」という違和感であった。自らの経験と、そして周囲の人々との関わりから得た現実感覚を大切にするがゆえに、そこから生じたこの違和感をもやもやした状態からはっきりと姿の見える状態へと変えたい、というのが、私たちが生い立ちの違いを越えて共同研究に参集した共通の心情であったと思う。冒頭の段落で述べたものはその違和感のおもな矛先である。しかし自らを棚に上げてそれらへの批判に直接向かうのではなく、逆に自分たちの知識と実感をたがいに付き合わせて、徹底的に事実を洗いなおしてみるという正攻法を私たちは採った。その結果到達した共通認識が、つまるところ、「ではなにが違うのか」「本当はどうであるのか」を具体的に示した本書ということになる。