目次
美女と野獣
ほら吹き男爵の冒険
クリスマス・キャロル
雪の女王
不思議の国のアリス
若草物語
海底二万里
フランダースの犬
お姫さまとゴブリンの物語
アルプスの少女ハイジ
王子と乞食
ピノッキオの冒険
十五少年漂流記〈二年間の休暇〉
ジャングル・ブック
オズの魔法使い
小公女
ニルスのふしぎな旅
赤毛のアン
青い鳥
秘密の花園
ピーター・パン
あしながおじさん
少女パレアナ
クマのプーさん
エーミールと探偵たち
タンタンの冒険
点子ちゃんとアントン
飛ぶ教室
風にのってきたメアリー・ポピンズ
大草原の小さな家
バレエ・シューズ
ホビットの冒険
ジェニーの肖像
黒い兄弟
空とぶベッドと魔法のほうき
長くつ下のピッピ
スチュアートの大ぼうけん
まぼろしの白馬
やかまし村の子どもたち
たのしいムーミン一家
ふたりのロッテ
「ナルニア国ものがたり」シリーズ
シャーロットのおくりもの
床下の小人たち
ミオよ、わたしのミオ
第九軍団のワシ
指輪物語
「いたずらラモーナ」シリーズ
さすらいの孤児ラスムス
くまのパディントン
ミス・ビアンカくらやみ城の冒険
「プチ・ニコラ」シリーズ
おばけ桃の冒険
大どろぼうホッツェンプロッツ
チョコレート工場の秘密
ふしぎなマチルダばあや
黄金の七つの都市
クローディアの秘密
ゲド戦記
こいぬのうんち
父さんギツネバンザイ
クラバート
光の六つのしるし
ロッタちゃんとじてんしゃ
モモ
プリンセス・ブライド
「ミルドレッドの魔女学校」シリーズ
時をさまようタック
テラビシアにかける橋
くもりときどきミートボール
子ブタシープピッグ
はてしない物語
リトルベアー
戦火の馬
急行「北極号」
ハウルの動く城
ミセス・ダウト
「マジック・ツリーハウス」シリーズ
フリーク・ザ・マイティ
黄金の羅針盤
「ハリー・ポッター」シリーズ
さよなら「いい子」の魔法
サンサン
穴 HOLES
「世にも不幸なできごと」シリーズ
「ダレン・シャン」シリーズ
ポビーとディンガン
「プリンセス・ダイアリー」シリーズ
タイドランド
『トラベリング・パンツ』シリーズ
コララインとボタンの魔女
チョコレート・アンダーグラウンド
世界でいちばん大切な思い
魔法の声
ヒックとドラゴン
『スパイダーウィック家の謎』シリーズ
『トワイライト』シリーズ
「パーシー・ジャクソン」シリーズ
ほか
前書きなど
はじめに──白百合女子大学教授 井辻朱美
●ファンタジー成分の長命力
本書は子どもの本の映像化を扱ったものです。
こんな本があるといいな、と思ったきっかけは、数年前、某社の企画で、ローティーン向けに、世界の名作童話のアンソロジーを編んだときでした。
百ほどの項目を立てるのに、グリムやペローの昔話、アンデルセンや『不思議の国のアリス』あたりの突出した名作までは、ラインナップに悩むこともなかったのですが、二十世紀の作品、それも戦後から今まで紹介されてきた定評ある作品の中から選ぼうとすると、知名度が大きな問題になりました。三十代の女性編集者さん複数が知らない、と言った作品を外してゆき、また読者対象の親世代が知っているはずの作品を、と考えると、九割以上がファンタジー作品になってしまったのです。
たとえばある世代以上では非常に人気があったアーサー・ランサムの知名度は、いまかなり低いことがわかりました。
ある時代、ある国、ある社会制度に強く特化したリアリズムの作品は、知識のない子どもにはかなりハードルが高くなります。共感しにくいため、時代を超えた不朽の名作、となることはなかなか難しいのです。その点、時代による制約を持たない、空想をもとにした作品、たとえば『ピーター・パン』を知らない人はいません。放恣とも見える、人類の想像力に根ざしたファンタジーがむしろ、神話や昔話と同じように普遍性を持っていることを改めて感じました。
そして、それとともに気づいたのは、多くの人が、知っている、と嬉しそうに答えた作品は、ほとんどがディズニーをはじめとするアニメや映像化をへたものだということでした。
ファンタジー成分の含有度の高さ。そして、それを二次的に映像化した作品の存在。おそらく現代では、子どもが親しみ、血肉としている作品の要件は、それなのです。
面白いから、何度もさまざまな形での映像化が行われ、それを見て育った世代が、次にはそれをもとに新たな再話やパロディを試み、ついては原作も参照する、という形で、プラスのフィードバックが続きます。ファンタジーゆえのいじりやすさ、転化しやすさもそれを促進します。
そして逆に言えば、映像化されなければ、特に児童文学の場合、その作品は読まれなくなり、時代の化石となって埋もれてゆきがちです。映像やアニメによって延命してゆくことがなければ……。最近では、『床下の小人たち』シリーズ(メアリー・ノートン)が、リバイバルした好例でしょうか。
時代を超えて生きのびるファンタジー。
それに大きく関与するのが作品の(ゲームを含む)映像化。
本書も、映像をひろっていった結果、自然に八割ほどがファンタジー系作品になってしまったことを思いあわせると、このふたつは不即不離の関係にあるようです。
●上書きされる原作・失われる「著者性」
ところで、ここにもうひとつの問題も見えてきました。
勤務先の児童文化学科の学生たちですら、『ナルニア』のディズニー映画に満足して、めったに原作を読みません。まして『リトル・マーメイド』となると、さらに古いアンデルセンの原作は関心の外にあるようです。人魚姫は王子と結ばれ、ともに魔女を倒す。この大団円の充足感が、王子と結ばれずに泡になってしまい、唯一の救いは三百年のあいだ善行を積めば天国に行けること、という原作のいじらしく哀しい結末を、(集合意識レベルで)上書きしてしまったようです。
おそらく、原作はアンデルセンの「人魚姫」だ、という知識は受け継がれていっても、心の中でのキャノン〈正典〉となるのは『リトル・マーメイド』のほうなのでしょう。
原作がもっとも正統的特権的な位置を占める、という「著者性」の優位は、そろそろ危うくなっているのかもしれません。
わたし個人の経験からも、子どものころ読んだ翻案リライト本のほうが、ずっと面白く、フェイクと言われようと、それが自分にとっての「あの作品」なのだという本は何冊もあります。たとえばボアゴベーの『鉄仮面』のように、大人の作品を「少年少女名作全集」に入れた場合は、訳者の力量によって、原作よりよっぽど子どもの心に訴えるものになることも多いのです。黒岩涙香の書いたハッピーエンドは、大人になって読んだ完訳本には影も形もなく、だからといって、わたしの心に深く刻まれた『鉄仮面』のあれこれのせりふや、感動的なシーンを消し去ることは、もはやできません。
原作は、そんなふうに時代とともに上書きされてゆきます。生まれた異本(あるいは映像)のほうが、その時代にフィットすれば、それが〈正典〉になって引き継がれてゆきます。
「著者性」というものが成立したのが、印刷テクノロジーをめぐる制度に随伴したできごとであったとすれば、そして紙に記されることで侵しがたい「原作」が成立したのであったとすれば、自由に書き換えることのできる電子文字の時代には、おびただしいパロディや異本、二次、三次創作が生まれやすくなるのも当然であり、口承文芸がそうであったように無数の異本、異伝、そして映像(さらに自由なCGによる)作品が広がってゆき、もっとも人口に膾炙したものが生き残ってゆくことになるのかもしれません。
特に幼いころに目で見た「映像」は、文字以上に強烈な記憶として刻印されます。
アスランのオーラ濃度が大幅に薄まった映画の『ナルニア国ものがたり』が、自分の「ナルニア」になった学生にとっては、原作はむしろ違和感を覚えるものでしょう。そして面白いものだけを正直にうけとめる子どもの感性が、それぞれの時代の児童文化を作ってゆくとすれば、原典主義は、子どもの本に関するかぎり、あまり意味がなくなっているような気もします。
「美女と野獣」の物語がギリシア神話の時代から、どのように再話、再解釈、変容を被りつつ生き残ってきたかを論じた本があります。確かに同じコンテンツでありながら、時代によって教訓のバイアスがかかったり、社会的な解釈がほどこされたり、多様な姿を見せつつ、紆余曲折の末に二十世紀のコクトーやディズニーにたどりつくわけですが、強靱なエッセンスを持つもの(特に神話や昔話的なもの)は装いを変えながらも、しっかりと生きのびてゆく。ディズニーの『美女と野獣』の映画からは、新たにミュージカルも生まれるなど、いまも増殖を続けています。
まとめてみましょう。活性化しやすい作品とは、人類の普遍的な想像力に触れるファンタジー性を持ち、それらは再解釈の欲望を刺激するため、多くの映像化作品が生まれ、それらに触発されて、また新たなヴァリアントが生じ、そんなふうな時空連続生命体として生き延びてゆくのではないか。その中では最初の「著者」はむしろドミノ倒しのきっかけを与えただけに過ぎないように見えることもある。そういう生き物として、作品を考えてみたいと思います。
映像化されつづけるフェアリーテイル
そんななかで、二年ほど前に大学院のゼミで、社会学者ジャック・ザイプスの『魔法にかけられたスクリーン―フェアリーテイル映画の知られざる歴史』(二〇一一)を読みました。ザイプスは昔話と社会の関係の解明を一貫したテーマにしていますが、この本は映画という技術が生まれてから、「白雪姫」「シンデレラ」のような昔話、「青ひげ」のような伝説、あるいは『ピーター・パン』のような古典ファンタジー作品がどれほどさまざまな解釈によって映像に翻案(アダプテーション)されてきたのかを丹念に追ったもので、各時代に支配的なイデオロギーによって、作品のニュアンスが染め変えられてゆくさまを、教室では実際に古い映画をユーチューブ等で鑑賞しながら追うことができました。
なんで、こんなところが強調されているの?
驚きと笑いとたくさんの疑問符を頭に浮かべながら、白黒の映像を見ました。
そして思ったのは、この映画を見た人は、「こういう話なんだな」と刷りこまれつつ、監督の采配の及びきれなかった微妙な余白の存在をも感じていたのだろうなということでした。映像は文章とは違った意味で、多くの解釈未満のディテールを持っています。そしてそれは原作のさりげない一部の残存であることもあり、無意識に書き換えられたところでもあり、あるいは時代のアイテムにすり替えられた部分でもあり、しかしながら、そういう操作を誘引したこと自体、原作にはやはり強いパワーがあったのでしょう。原典至上という時代ではない、とさきに書きましたが、それでも、尽きせぬ想像力をかきたてる最初の火種として、原作は存在しています。
時空連続生命体としての作品を考えつつ、その中で、まずは原作にたちかえってみよう。本書はそういう意図から編まれています。実際の映像とともに、楽しんでいただけたら幸いです。