前書きなど
はじめに──香山リカ
精神科医になってからずっと「若い人」の問題を考え続けてきたが、いまほど彼らがたいへんな状況に置かれている時代はない、と漠然と感じてきた。
その「たいへんさ」には二重の意味があるように、これまで私は思ってきた。ひとつは、長引く不況、格差の広がり、非正規雇用の拡大や成果主義導入による労働の激化など、若者を取り巻く社会の側の構造的な問題による「たいへんさ」である。
そしてもうひとつは、若者自身の内面のなんともいえない、しんどさ、つらさだ。このままじゃいけない、居場所がない、誰にも理解されない、生まれなければよかった。自己肯定感があまりにも低いのだ。そしてこう口にするのは、何も現実につらい状況にある若者だけではない。いわゆる一流企業や官庁で働く人や人気作家、アーティストまでが、「私なんて生きている意味がない」とまじめにつぶやくのである。ある意味で、自己肯定感にもとづくこの内面のしんどさには格差がない、と言ってもよいかもしれない。
外側からも内側からも「たいへんさ」により責められている現在の若者たち。この人たちにどうやって接し、支えればよいのか、私は臨床の場で考え続けてきたつもりだったが、なかなかうまいやり方が見つけられずにいた。
しかも、私は「若い人」の当事者ではない。子どももいない。臨床の場で答えを見つけられずにいるあせりもあり、マスコミから「いまどきの若者について分析を」といった依頼が来て何かを話すたびに、「はたしてこんな私に応える資格があるのだろうか」と自己嫌悪の思いが強まったりもしていた。
そんな中途半端な私の目をひらかせてくれたのが、自分よりずっと年下の雨宮処凛さんだ。
雨宮さんは十代のころから自分の内面からわき起こる「しんどさ」についてずっと考察を続け、エッセイや小説といった形でそれを言葉に置き換える作業を続けていた。それだけでは足りず、イラクや北朝鮮に行ったりテロを描いた映画の脚本を書いたり、といった「葛藤の行動化」を病的と生産的のギリギリのラインで行ったりもしてきた。
そしてここ一年あまり、雨宮さんはついにその目を「外側から押し寄せるしんどさ」にも向け始めた。派遣労働者やニート、ネットカフェ難民を社会構造的な問題ととらえ、彼らがいまどういう状況に追い込まれているのか、また何が彼らを産んだのかを徹底的に調べ、考え、発言し、そしてデモ行進やイベントまで行う。彼女により、若者が抱えていた内面の「しんどさ」はくるりと翻転し、外側から押し寄せる「たいへんさ」と接続されたのだ。
この憂うつ感は、あの法律とリンクする。この空虚さは、あの政治家の政策とリンクする。鮮やかに翻転の作業を続けながら、あなたが悪いわけじゃない、あなたの努力や性格の問題じゃない、というメッセージを届ける雨宮さんの快進撃を見て、私は久々に興奮したものだ。
その雨宮さんと直接、話す機会がこのたび与えられることになった。
私はまず、彼女の活躍を賞賛することにしよう。しかし、賛辞をひとしきり送った後は、気を落ち着けてあえてきいてみたいこともいくつかある。本当に、若い人たちの内面的な「生きづらさ」は、社会構造的な問題を解決することで解消されるのか。状況的にはむしろ恵まれていると思われるのに、「生きづらい」と感じている人も少なくないのはなぜなのか。また、この若者の危機の問題は、ほかの社会的弱者の危機、平和の危機の問題とどう関係しているのか。そして、内向きから外向きへと翻転を遂げた雨宮さん自身のモチベーションはどこにあるのか。
ああ、早く話したい。さっそく始めることにしよう。