紹介
◆ルーマンより面白い「ルーマン入門」
ルーマンは現在もっとも難解な著作を書いた思想家とみられています。彼の思想を理解するのは容易ではありませんが、著者は、ルーマン思想の核心をラディカリズムと喝破し、その思想を巧みな比喩やシニカルなユーモアを交えながら明快に語ります。知の体系の確立者ヘーゲルと対比しながら、ヘーゲルが宗教という偶有的なものを「必然性の哲学」によって止揚したとするなら、ルーマンはヘーゲルを「偶有性の理論」で止揚したと、思想史的独自性を明らかにします。また、ルーマンが混迷の時代に有効である理由を、システム論的な「偶有性の思想」に求めます。民主主義についても、そのイデオロギー性を知らないと危険だと指摘します。あまりに明瞭すぎるルーマン像に専門家からは反発が出そうな、しかしなるほどと思わされる、知的刺戟にみちた「ルーマン入門」です。
目次
ラディカル・ルーマン 目次
はじめに
I 序論
第一章 トロイの木馬
――ルーマンの隠された(とはいえそれほど隠されてはいない)ラディカリズム
第二章 彼がこれほどの悪文を書いた理由
Ⅱ 哲学から理解へ
第三章 第四の侮辱――ヒューマニズムの拒絶
第四章 必然性から偶有性へ――哲学のカーニバル化
第五章 プラトンへの最後の脚注――心身問題の解決
第六章 エコロジー的進化――社会創造論への挑戦
第七章 ポストモダン的現実主義の構成主義――差異の教え
第八章 ユートピアとしての民主主義――政治の脱構築
第九章 結論――望みでもなく怖れでもなく
補 遺 二クラス・ルーマン――知のあゆみ
注
訳者あとがき
文献の短縮表記
事項索引
人名・著作索引
装幀 難波園子
前書きなど
ラディカル・ルーマン はじめに
ニクラス・ルーマンの社会システム理論は、現代社会のありようを理解するための、もっとも先進的かつ適切で、広く応用できる考え方をもたらしてくれる、という点で際立っている。一つ具体的な例を挙げよう。一九九七年に出版されたルーマン最晩年の論考「グローバリゼーションか世界社会か? 近代社会をどのように理解すべきか?」において、彼はこの問いにきわめて理路整然と答えているだけではなく、後に(二〇〇八―九年)大きな財政危機へといたることになる経済発展の輪郭を、驚くべき正確さで描いている。
ルーマンはそうした危機そのものを予言したのではない。ただそれを可能にする社会的文脈をうまく説明することに成功したのだ。なぜそんなことができたのか、それはルーマンの理論的アプローチが、(彼によれば)幸福と連帯というユートピア的理想にずっと関心を寄せてきた主流の政治理論からラディカルに離脱していたからだ。ルーマンは次のように宣言する、「私たちは最終的に、人間の幸福などない社会、そしてもちろん上品な趣味も連帯も生活水準の類似性もない社会を甘んじて受け入れなければならない。こうした願望に固執すること、市民社会やコミュニティといった古びた名ばかりのものを今さら甦らせて、そんな一覧表を復活させ補完することに、なんの意味もない」、と。彼は、社会理論家たちに、隠れた「理想主義者」とか道徳主義者を気取ることをやめよと訴え、こう言う、「社会学者は、近代の俗流聖職者の役割を担ってはならない」。ルーマンによれば、多くの社会思想・政治思想にみられる道徳主義的傾向は、理論的な退化からくるものだ。社会理論の「俗流聖職者たち」は、未だに社会を十八、十九世紀の大先生たちの視点で考えている、つまり社会は抑圧するものと抑圧されるものに二分されているという社会階層の視点で考えているのだ。彼はこう書いている、「階層に目を向ければ、不正や搾取、抑圧……に気づくことになろう。そしてそれを矯正する工夫を見いだそうとする。少なくとも批判や抵抗のレトリックを刺激するような規範的施策や道徳的禁止を打ち立てようとするだろう」。ルーマンは、こうしたレトリカルな態度からラディカルに距離をとることを提唱する。その根底には、社会は階層分化から機能分化へと変化してきたという知見がある。彼はこう宣言する、「他方、機能分化に目を向ければ、私たちの叙述は―システムごとにさまざまに異なるその特異な点において、高度な感受性と刺激性に結びついている―機能的システムの自律性、つまりその高度な中立性へとさし向けられる。こうして、私たちはそこに、頂点も中心もない社会、すなわち進展はしていくがそれ自体統御不能な社会というものを見いだすことになる」。
俗流聖職者の視点からラディカルな理論家の視点へ、この転換こそ私が本書で探求するものだ。あるいは、ルーマン理論の間違った解釈に対抗しようとするものだ、と言い換えてもよい。ミヒャエル・キングミヒャエル・キングが言うように、そうした解釈は「ルーマン理論が導くラディカルな本性とパラダイムを認識」しそこなっているからだ。しかしまず、一九九七年に、ルーマンの死後ずいぶん経ってから起きた財政危機の社会的条件を彼がどのように描いていたか、に立ち返ってみよう。
機能分化に基づく全体社会では、「国際的」とは、実際にはもはや二国間あるいは複数国間の関係ではなく、全体システムの政治的・経済的諸問題のことである。徹底的に脱地域化された世界社会では、「すべての内部境界は、サブシステムの自己組織化しだいで決まるのであり、歴史の「起源」や自然や包括的システムの論理で決まるわけではない」。この結果、「世界社会は、さらに高度な複雑性の段階へと達した」といえるような状況がもたらされる。そこには「より高度な構造的偶有性や、より予期不能・予測不能な変化(これをカオスとよぶ人々もいる)、そしてとくにより内的に結びあわされた依存性と自立性が見いだされる。つまり、因果的な構築(や計算や計画)は、中心的な、ゆえに「客観的な」観点からはもはや不可能だということだ」。
こうした混沌とした複雑な社会のなかでは、「機能的システム内の構造的発展が相互に両立可能であるという疑似宇宙論的保証は、もはやない」。それは、たとえば「きわめて効率的な現代医学は人口学的な結果をもたらす」ということ、すなわち医学の「進歩」は、高齢者人口と若者人口の不均衡や増大する保険医療費といったあらゆる種類の社会的・経済的諸問題を引き起こす、ということだ。同様に「国際金融市場の新たな集中やそれにともなう生産、労働、貿易の周辺化が起き、経済上の担保が実際の資産や一級の債務者から投機的思惑それ自体へと移行すると、仕事が減り、政治家は(市場を介さない?)仕事を約束するように仕向けられる。つまり、経済のヴァーチャル化、普通の商品よりも金融商品を焦点化する経済への移行は、(一部の人に)莫大な富を生みだしたが、経済と、たとえば下部構造、生産手段、労働、法システムとの、そして政治との伝統的な結びつきを侵食することになった。こうして、社会は、「予測できない結果に対して安全とリスクを同時に最大化するような新しい金融関連商品を擁する金融市場の不安定さ」に新たに直面することになる。言い換えれば、「経済システムは、その安全性の基盤を、資産や(国家や巨大企業のような)信頼に値する債務者から、投機的思惑それ自体へと変えたのだ。資産を維持しようとする者は大金を失い、財産を維持しかつ増殖しようとする者は日々その投資先を変えなければならないだろう。彼は新しい金融関連商品を利用するか、あるいは彼のかわりにそれを引き受けてくれる多くのファンドのどれかをあてにしなければならない」。ルーマンには、こういったことのすべてを「搾取」といった伝統的な語彙や、「強欲」といった道徳主義者のカテゴリーで説明することはできない。
経済の金融部門におけるこうした展開とそのほとんど悲惨な結果―たとえばアイルランドの教育システムの場合―は、「私たちは「歴史以後」の段階にいるのではなく、逆に結果を言い当てることなどできない荒れ狂う進化の只なかにいるのだ」というルーマンの言葉の正しさを、はっきりと示している。こうした状況で、過去三、四百年にわたって哲学者たちによって展開されてきた政治理論の言葉にしがみつくことは、有望な戦略だとは思えない。ルーマンは言う、「現在、社会という概念をめぐるまだ解かれていないさまざまな問題が、理論的進歩を妨げているように思える。善という考え方、あるいは少なくともより良い社会という考え方が、この領域を依然として支配している。社会学者たちは、理論に関心があるのに、新しい迷宮に足を踏み入れようとはせず、見返りが減りつつあるのに、古い迷宮を探求しつづけている。しかし、マスメディアによってつくり上げられた問題のより良い解決を探し求めるのではなく、まず「何が問題か」を問うことのほうが、価値があるだろう」。
ではいったい何が問題なのか。またさらに問うなら、それをもっとよく理解するために、私たちはどのようにものの見方を変えなくてはならないのか。以下の各章では、哲学から理論へという、現代世界への新しい視座を切り開くルーマンのパラダイム・シフトがどのようなものであるかを明らかにする。
まず、いかなる社会システムの下でルーマンの著作が生みだされたのか、つまりドイツの学問の現場が、二十世紀最後の二、三○年間どのようなものであったのか、を描きだすことから始めよう。ルーマンは、「支配から自由な討議」(herrschaftsfreier Diskurs)に基づく社会というハバーマスの学説が優勢だった当時の状況のなかで、それに異議を唱えたにもかかわらず、いやおそらく異議を唱えたからこそ、成功することができたのだ。ルーマンは、この規範的な政治哲学に対して、一つのラディカルな選択肢を呈示した。ルーマンは自分の理論を、ひとたび敵陣の内部に入れば内側から敵を壊滅させてしまう破壊的なトロイの木馬だと考えている。私が主張するのは、この脅威を隠すためにルーマンがとった戦略の一つが、ときに難解になってしまうその文体だった、ということだ。ハバーマスや当時学界エリート層に属していた人々が用いる専門用語を受け入れることで、ルーマンは彼らのトロイへと入っていくことを許されたのだ。
こうした予備的考察のあと、ルーマンの仕事における哲学から理論への転換だと私が考えるものについて、そのさまざまな側面をみていく。ルーマンは、近代西洋哲学の人間中心主義的な伝統と袂を分かつ。他のいかなる人文科学にもまして、哲学は―とりわけ政治哲学・社会哲学では―人間を「万物の尺度」だとみなしてきた。人間の慢心に対するルーマンの「第四の侮辱」とは、社会理論の中心に位置する「人間」という概念を否定することにある。彼は、天文学(コペルニクス)、生物学(ダーウィン)、心理学(フロイト)においていち早く起きた非・人間中心主義につづいたのだ。この侮辱が、先達者たちとまったく同じように、多くの人々にスキャンダラスなものだと思われたことも、そのせいで、どこかのイデオロギー的陣営では、ルーマンをずっと好ましからざる人物だとみなしていたことも、驚くべきことではない。
第四章「必然性から偶有性へ」では、ルーマンとヘーゲルの比較を行なう。私の考えでは、ヘーゲルはルーマンに影響を与えたもっとも重要な哲学者である。しかし、この二人の偉大な体系的思想家の関係はかなり曖昧だ。私は、ルーマンの試みを、ヘーゲル哲学のヘーゲル的止揚だと考えている。ヘーゲルが哲学による宗教の止揚を試みたように、(それを一段高いレベルに上げて、克服し、保存する、という三重の意味で)ルーマンは理論による哲学の止揚を目論んだのだ。ヘーゲルにとって哲学の営みは、偶有性を必然性へと変容させることにある。ルーマン理論がめざすのは、必然性を偶有性へと変容させることだ。
第五章「プラトンへの最後の脚注」では、理論へのルーマン的転換という偉業のうちで、もっとも明白であるにもかかわらず、まったく見逃されている(と私が考える)ことについて、その輪郭を描こう。それは、伝統的な西洋哲学における中核的な問題、すなわち心身二元論の解決である。デカルト以降、彼への否定的反応において、この強固な二元論を扱う試みは、大体において、身体を解放するといった方法で精神と身体を調停しようとするものだった。心―身を語るときのこの偏見のせいで、「既存の枠組みに囚われずに」考えることも、この二元論に対してさらにラディカルな選択肢を展開することもできなくなった。ルーマンが説得的に示すのは、知性的なものと物的なもののほかに、少なくとももう一つの次元、コミュニケーションという次元があるということだ。この第三の次元によって、ルーマンは、伝統的な実体の二元論をさまざまなシステム領域間における構造的カップリングの機能理論に置き換えることができたのである。
第六章では、ルーマンの社会理論への(ハバーマスの造語を使うなら)「メタ生物学的」なアプローチについて論じる。それによって、ルーマンは近代の主流の社会思想・政治思想と再び袂を分かつことになる。啓蒙時代およびそれ以後の哲学は、市民社会とそれを構成するとみなされていた個人を、自律的な行為体として見るようになった。自由意志、合理性、責任によって、人間は社会を形成し「自ら招いた未成年状態」から脱することができる。こうして人間は自らを創造するものとなる。人間は、自らの運命と自らが生きる社会の究極の支配者である。しかし進化論的にみれば、そんな自己統御や自己支配など幻想にすぎない。システム論的にみれば、社会的世界は自然と同様、いかなる知的な設計者も自律的な統治者も入りこむ余地のない、またその必要もない、多くの複雑なシステム―環境関係から成り立っている。
第七章「ポストモダン的現実主義としての構成主義」では、「ラディカル構成主義者」としてのルーマンの自己アイデンティティについて論じる。私が指摘したいのは、構成主義と現実主義は本質的に矛盾するものではない―とくにルーマンの場合には―ということだ。ルーマンの構成主義は認識上の構成主義である、つまり、認識論的なものである。認識上の構成とは、現実が出現するための「可能性の条件」である。つまりそれは存在しないものから存在するものを区別し、それによって、現実的なものを現実化するのである。このようにして、認識上の構成はドイツ観念論を根源的に刷新し、存在論と認識論の関係を逆転させた。ルーマンにとって、現実は経験のアプリオリな条件ではない。そうではなく、彼はこう主張する、認識の機能は「オートポイエーシス的に」自らを生みだし、それによって―さまざまな仕方で―現実を構成することができるのだ、と。現実は、認識の自己生成・自己構成の効果として、同一性ではなく差異の上に成り立つ、そしてこれが現実を、まさに現実的にするのである。
第八章では、ルーマンが民主主義をどのように理解しているのかを分析し、より具体的に社会統御の限界を精査する。ルーマンは、民主的参加というものに疑問をもっていた。彼によれば、人民による支配という民主主義の考え方は、ユートピア的な夢物語にすぎない。それは現代社会の政治の機能を十分に意味あるものとして描くことはできない。社会はいかにして民主的なものへと変わりうるのか、そして最終的に人々はいかにして自らを支配するようになるのかを考察するのではなく、ルーマンが提唱するのは、象徴的な物語としての民主主義―それによって政治システムは正統性を調達することができる―という機能主義的な考え方である。逆説的だが、社会をより民主的にしようとする試みは、実際は、民主的な政治を危機に陥らせることになるかもしれないのだ。ルーマンの政治的ラディカリズムは、したがってイデオロギー的なものではなく、反イデオロギー的なものである。
最後に―おそらく不適切な問いかもしれないが―、ルーマンのラディカリズムは結局私たちをどこに連れていくのか、あるいは、ルーマン的な社会への態度は、いや生への態度とはどのようなものなのか、という問いに答えよう。この態度は、謙虚さ、アイロニー、平静さの陶冶として規定されうる、と私は考えている。 補遺では、ルーマンの生涯とその理論をざっと概観することになる。
アン・R.ギボン、アンドリュー・ホワイトヘッド、ジェイソン・ドックススティダーには私の英文の誤りを訂正し、多くの修正点・改善点を指摘していただき、たいへん感謝している。ブルース・クラーク、マイケル・キング、エレーナ・エスポジトには、本書の草稿に目を通していただき、丁寧なコメントおよび批判をいただくなど、多くを負っている。コロンビア大学出版のウエンディ・ロックナーには、この「ラディカル」な企画を引き受けていただき感謝している。またアイルランドのコーク大学、芸術学部、ケルト研究所、社会科学部には、本書の刊行のためにご尽力をいただき感謝している。