目次
目 次
はしがき………………………………………………………………………………………………………
第一章 差異が切り結ぶ「黒いわたしたち」——アフリカン・ディアスポラの理論的射程……
はじめに
一 一九六五年移民法と顕在化する「黒い移民」
二 西インド諸島系移民に関する研究の成果と問題性
三 アフリカン・ディアスポラとしての黒人——「差異を織り込んだ連帯」へ
むすびにかえて——ディアスポリックな想像力と歴史研究
第二章 「二重の不可視性」を生きる西インド諸島系移民——人種の政治とアムネスティ法案……
はじめに
一 不可視な「新しい移民」
二 ニューヨークをめざす西インド諸島系移民
三 西インド諸島系非合法移民擁護の政治学(1)——〈黒人〉の糾合
四 西インド諸島系非合法移民擁護の政治学(2)——顕在化する利害のズレ
むすびにかえて——二分法的理解の彼方へ
第三章 「ハワード・ビーチよ、聞いてるか? ここはヨハネスブルグじゃないんだ!」
——暴力、人種主義、多様な「わたしたち」…………………………………………
はじめに
一 ハワード・ビーチ事件の経過
二 ハワード・ビーチ事件にみる黒人にとっての人種主義的な日常
三 多様性がもたらす開かれた人種連帯
むすびにかえて——人種的平等への険しい道のり
[資料──ハワード・ビーチに関する情報文書]
第四章 デイヴィッド・ディンキンズとクラウン・ハイツ暴動
——都市政治史と人種・エスニック関係史の交差…………………………………
はじめに
一 ニューヨーク市初の黒人市長の誕生
二 クラウン・ハイツという火薬庫
三 政治争点化されるクラウン・ハイツ暴動
むすびにかえて——ディンキンズへの評価と暴動の教訓
[補論──クラウン・ハイツ暴動に関わる裁判のその後]
第五章 警察の残虐行為が構築する人種連帯のかたち——三つの事件と重なり合う「集合的記憶」
はじめに
一 人種主義的暴力に直面するハイチ系移民——アブナー・ルイマ事件
二 連鎖する怒りと不安——アマドゥ・ディアロ射殺事件の「介入」
三 ヘイシャン・ディアスポラからアフリカン・ディアスポラへ
——パトリック・ドリスモンド射殺事件
むすびにかえて——多層な準拠枠としてのアフリカン・ディアスポラ 1
結語…………………………………………………………………………………………………………
註………………………………………………………………………………………………………………
索引……………………………………………………………………………………………………………
前書きなど
はしがき
「アメリカ史についての一学期間の講義、ありがとうございました。これまで知らなかったことも多く、非常に勉強になりました。ただ強いて要望をあげるとすると、もっと面白い話や明るい話があってもよかったかなと思います」。多少の表現上の差異はあるものの、講義の最終回で記述を求める授業アンケートにはこれと同じような趣旨のコメントが毎回一つか二つはある。記入してくれた学生に反論したいという意図は全くといっていいほどない。授業全体を通して伝えたかった重要なメッセージが部分的にしか伝えられていなかったということを確認できるという意味で、この種のアンケートは自らに反省を迫る機会であると考えている。もちろん、研究上の「面白さ」とわたしたちが日常的に感じる「面白さ」は別物だから、と少しポイントをズラして抗弁することも可能なのであろう。あるいは、学術的な「批判性」はいわゆる日常的に使っている「中傷」や「難癖」とは全く別物であって、批判的な分析の向こう側にこそ建設的なビジョンが見通せるのだ、と説明することもできるだろう。ただいずれにせよ、何かすっきりしないものが残ってしまう。このように、私の場合はほとんど毎回、学期の終わりにはささやかな「敗北感」と次回の講義での「課題」を抱え込むことになるのである。
本書は、そのような反省と自己批判の産物でもある。差別や抑圧、排除、暴力、暴動といった、「面白い話」や「明るい話」とはどちらかといえば正反対の出来事から、わたしたちはどのような(さらにはどのように)未来に向けての建設的なメッセージや教訓を受け取ることができるのか。圧倒的に絶望的な状況でも希望を失わず、「変革」を求めて闘うことをやめなかった人々の「自由の夢(freedom dreams)」の物語を、表層的な「明るさ」や「面白さ」を乗り越えた地点で広く語り伝えるにはどうすればよいのか。本書の個々の議論の基底にはこのような問題意識がある。
さて、具体的な議論は第一章以下に譲るとして、ここで私自身のこれまでの研究とも絡めて研究史的な整理を少しだけ行っておきたい。アメリカ合衆国の移民史や人種・エスニック関係を専攻する中で、私は「白か黒かの二分法(black-or-white dichotomy)」を批判的に再検討することを中心的な課題としてきた。二〇〇七年に上梓した前著、『〈アメリカ人〉の境界とラティーノ・エスニシティ』(東京大学出版会)は、「白」とも「黒」とも異なると広く捉えられているラティーノに注目することで、この二分法の規定力とその問題性を歴史学的に論じた。本書では、黒人の多様性や集団内的な差異に注目することで、二分法に別の角度から批判的に迫ることを目的としている。研究史に即していえば、白人集団内部の差異や「白さ」の陰影については、「白人になる」という歴史局面への注目を通して歴史学的に分析されてきたのに対し、黒人については人種的には一枚岩的に捉えられる傾向があった。二〇世紀後半以降、西インド諸島からアメリカへの移民が急増する中で、黒人内部の多様性(あるいはエスニシティの複数性)に照準を据える社会学や人類学の研究は増えたが、歴史研究の素材としては充分に分析されていないように思われる。そのような研究状況を踏まえ、本書では、アフリカ系アメリカ人や西インド諸島系が黒人としての人種連帯と内的多様性の関係をどのように調停してきたのかという点を、ニューヨーク都市史という枠組みで論じようと試みた。そのような目論見がうまくいっているか否かは、読者諸氏の判断にゆだねるほかない。(以下略)