目次
まえがき
序章 「性的マイノリティの難民」を問う
1.「性的マイノリティの難民」を問う
2.研究の方法
3.本書の構成
第1章 難民・強制移動とジェンダー/セクシュアリティ
1.難民・強制移動とジェンダー
2.性的マイノリティの難民へのアプローチ
3.クィア移住研究として
第2章 国境におけるセクシュアリティの歴史と政治
1.セクシュアリティの規範と入国管理
2.難民政策のターニングポイント――1980年マリエル・ボートリフト
3.「ホモセクシュアル・マリエルズ」から「特定の社会的集団の構成員」へ
第3章 性的マイノリティの難民の保護
1.セクシュアリティと保護/排除の言説
2.外交政策としての「LGBT難民と庇護希望者」
3.「LGBT難民」≠「LGBT庇護希望者」
4.新聞報道のなかの性的マイノリティの難民
5.国境の厳格化と入国管理政策
第4章 難民の移動と語りの構築
1.調査のフィールドと支援のアクター
2.移動と難民認定申請
3.難民の語りの構築
4.権利とアイデンティティを「学び」、語る―ニューヨーク市の事例から
5.非正規移民から難民申請者へ―サンフランシスコ・ベイエリアの事例から
第5章 難民の語りのクィアな可能性
1.「寛容なアメリカ」対「ホモフォビックな出身国」
2.帰属意識の複層性
3.庇護国アメリカとLGBTコミュニティの包摂の幻想
終章 性的マイノリティの難民の包摂と排除
1.「LGBT難民」の包摂と移民・庇護希望者の排除
2.クィアな実践としての移動と語り
3.今後の研究課題
あとがき
参考文献一覧
前書きなど
まえがき
本書は性的マイノリティの難民に関する問題をテーマにしている。しかしそれは「マイノリティのなかのマイノリティ」を可視化することのみを目的としているわけではない。もちろん、本書を通してそうした人々の存在や経験についての認識が広がることを期待してもいるが、なにより明らかにしたいのは、人の移動とセクシュアリティには関わりがある、ということである。入国管理の歴史、制度、政策、言説を紐解けば、「善き市民」がセクシュアリティの規範によって区別されてきたことが見えてくる。個別具体的なプロセスとしての移動の経験自体がセクシュアリティに規定されること、そして移動の経験がセクシュアリティに関わる主体形成に影響を及ぼすこともある。
セクシュアリティと難民、強制移動というテーマに私が関心を寄せ続けてきた理由のひとつに、ある女性との出会いと彼女の語りを理解し損なった経験がある。「移住とジェンダー」についての卒業論文を書こうと、大学学部4年生の夏に東京都八王子市に住む外国籍の女性数人に話を聞かせてもらっていた。調査インタビューに協力してくれた女性たちの多くが結婚し、子どもがいたため、外国籍であること、妻であること、母であることが移住女性にとってどのような意味をもつのかについて考えていた。しかし人づてに紹介されたAさんの状況は他の女性たちと大きく異なっていた。インタビューを開始してまもなくAさんは自分には子どもがおらず婚約しているが、「もつべきではない関係」をもち、「するべきではない妊娠」をしたために、出身国に帰れなくなってしまったと語った。もとは同国出身の婚約者に呼び寄せられるかたちで日本に来たのだが、その婚約者との関係もそれが原因で切れたという。在留資格の期限も迫っている。話の途中で泣き出したAさんになんと声をかければよいのか、そしてその話をどう受け止めてよいのかわからず、私はうろたえるしかなかった。
卒業論文は無事に書き終えて提出したのだが、Aさんの語った経験を人の国際移動を考えるうえでどう捉えたらよいのかはわからないままだった。未練のようなものを抱えているうちに私は日本の難民問題と出会う。「命の危険にさらされて」「着の身着のままで」「紛争から逃れて」「政治的な活動を理由に」といった、難民問題を説明するのによく用いられる言葉はAさんの状況とはかけ離れているように聞こえたが、それでもなにかつながっているような気がしてならなかった。
その後ほどなくしてゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーであることを理由に難民認定申請を行う人々と関わり始めるのだが、最初はかれらのことをマイノリティのなかのマイノリティ(難民のなかの性的マイノリティ、性的マイノリティのなかの難民)としてみていた。やがて性的マイノリティの人々の難民としての移動(強制移動)を、セクシュアリティと人の国際移動の関係性を映し出す事象として位置づけてみると、あのときのAさんのことがふいに思い出されたのである。Aさんの出身国に帰れないという語りは、もしかしたらセクシュアリティの規範の逸脱と移動の関連性から考えてみることができたかもしれない。
こうした関わりを色濃く映し出しているのが、性的マイノリティの人々の移動であり、とりわけ強制移動と呼ばれるような現象のなかにセクシュアリティの問題が規定されてきた。本書はこれをアメリカを事例として具体的に描き出すことを目指す。2021年2月4日、アメリカ合衆国大統領に就任したばかりのジョー・バイデンは「世界中のゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア、インターセックスの人々の人権促進について」という大統領覚書を発表した。覚書は次のように始まる。
すべての人間は尊敬と尊厳をもって扱われるべきであり、誰であろうと、誰を愛していようと、恐れずに生きることができるはずである。ここアメリカを含む世界中で、勇敢なレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア、インターセックス(LGBTQI+)の活動家たちが、法の下での平等な保護、暴力からの解放、基本的人権の承認を求めて闘っている。アメリカはこの闘いの先頭に立ち、我々が最も重要とする価値観のために声を上げ、力強く立ち向かっている。 アメリカは性的指向、ジェンダー・アイデンティティやジェンダー表現、性的特徴に基づく暴力や差別の撤廃を追求し、世界中のLGBTQI+の人々の人権を向上させるために、模範となる力をもって先導することを方針とする。
続いて具体的な方針が列挙されるが、その第2項が本書のテーマとする「脆弱なLGBTQI+難民と庇護希望者の保護」であり、そこには「暴力や迫害から逃げ場(refuge)を求めようとするLGBTQI+の人々は、困難な課題に直面している」と、現状についての認識がごく簡単に記されている。
「脆弱なLGBTQI+難民と庇護希望者」とは誰のことなのか。「逃げ場」とはどこか。「困難な課題」とはなにか。そしてなぜアメリカが闘いの先頭に立つのか。本書ではこうした疑問に対して、セクシュアリティの規範と人の移動の歴史、政治、制度、そして移動する人々の主体的な経験から答えの手がかりを見つけていきたい。
(…後略…)