目次
序章 教育と若者の現在――包摂「の中の」排除をめぐって(稲垣恭子)
第1章 「ひきこもり」の当事者は何から排除されているのか――リアリティ定義の排除という視点(石川良子)
はじめに
1 「ひきこもり」支援の倫理原則とその欺瞞性
2 排除の現場に目を向ける――当事者へのインタビューから
おわりに
第2章 男子問題の時代?――ジェンダー構造の変化と男子論争(多賀太)
1 男子問題の時代?
2 西洋諸国における男子論争――学齢期への関心
3 日本における男子論争――青年期への関心
4 男子論争にどう向き合うか
第3章 学習塾への公的補助は正しいか?――社会的包摂と教育費(末冨芳)
1 問題設定
2 社会的包摂と教育
3 学習塾への公費支援の展開――東京都「チャレンジ支援貸付事業」を対象として
4 考察
第4章 包摂/排除論からよみとく日本のマイノリティ教育――在日朝鮮人教育・障害児教育・同和教育をめぐって(倉石一郎)
はじめに
1 教育制度のレベルでの包摂と排除――その入り組んだ関係
2 「福祉教員」の事例にみる包摂と排除
おわりに
第5章 「教育」「教養」の力学と被爆体験言説――永井隆と山田かんをめぐって(福間良明)
はじめに
1 永井隆作品のブームと山田かんの屈折
2 被爆体験論と教養の力学
おわりに
第6章 低学歴勤労青少年はいかにして生きるか?――「路傍の石」の排除論(井上義和)
1 排除小説としての「路傍の石」
2 昭和10年代の勤労青少年問題
3 排除問題で想定される二つの解
4 「貧乏人同士手をつなぐ」から「金持ちとも手をつなぐ」へ
おわりに
前書きなど
序章 教育と若者の現在――包摂の「中の」排除をめぐって(稲垣恭子)
(…前略…)
現代の社会では、日常生活を支えてきた既存のさまざまな制度が揺らいで流動化しつつあるといわれる。それとともに、家族をつくること、学校にいくこと、職業につくことなど、これまで自明のものとされてきた制度の根拠や意味があらためて問われるようになっている。「不登校」や「ひきこもり」、「フリーター」や「ニート」などへの近年の社会的な関心には、それらを単に「問題」現象とみるだけでなく、教育への包摂それ自体が内包するジレンマやそれへの問いが含まれているように思われるのである。本書は、若者と教育をめぐるそうした問いを、包摂と排除という視点を軸に読み解いていこうとする試みである。
戦後日本における教育の大衆化は、教育への量的レベルでの包摂という点では貢献したが、それによって学力や文化的なレベルでのさまざまな差異をめぐる問題が必ずしも解消されたわけではない。親の教育意識や収入といった家庭背景やジェンダー、地域などの違いによって、学力水準やアスピレーションに依然として格差が存在することは、さまざまな調査研究のなかでも指摘されている。また、学校や塾・予備校、進学・進路先の選択などに際しても多様な選択肢があるようにみえるが、実際には教育にかける費用、有用な情報やネットワークとの接触といった格差が選択の範囲を制約し、格差を広げている場合も少なくない。いわば包摂のなかの文化的排除といえるような状況が存在するのである。
それだけではない。近年では、ジェンダーや階層、地域といったそれぞれ単一のカテゴリーにおける二項対立的な差異だけでなく、それらが重なり合い複層化した差異と、そのなかで生み出される複雑な排除の問題へと関心が広がっている。アイデンティティという視点からみると、社会的な制度の後退は、二項対立的で安定したアイデンティティから複数のカテゴリーが幾重にも重なったアイデンティティの複層性と流動性を顕在化させつつある。拠り所としてのアイデンティティの不可視化と流動化は、何が包摂で何が排除なのかをみえにくいものにする。このような個別的で複雑な様相を示す包摂と排除の微細な力学を明らかにしていくことが、現代の教育を解くひとつの重要な視点である。本巻では、たとえば「男子問題」に象徴されるようなジェンダーと教育をめぐる論争(第2章)や、塾への公的補助の是非をめぐる議論や政策(第3章)、教育制度や福祉教員の配置をめぐる複雑な構図(第4章)というテーマのなかで論じられている。このような「包摂のなかの排除」の問題は、現代の教育や学校が抱えるジレンマであると同時に重要な課題になっている。
このようなジレンマはさらに、教育への包摂それ自体が内包する排除=疎外という根本的な問題へとつながっていく。既に述べたように、社会的な制度の後退や流動化は、個人にとってはアイデンティティの拠り所や生きる意味を曖昧化しみえにくくする。現在と未来をつなぐ意味の希薄化や断片化に対する漠然とした不安は、冒頭に挙げた『木更津キャッツアイ』を蔽う雰囲気とも共通する感覚である。そうした不安や虚しさを一時的に払拭し手軽に意味を与えてくれるのが、短期的でわかりやすい目標に向けてアスピレーションを吸収し水路づけていくツールや言説である。そこでは、さまざまな教育ニーズに合わせた多様なコースやカリキュラムが提示され、それらを選択し組み合わせていくことで人生コースが設計される。このような市場化された顧客サービスとしての教育が「表の顔」になりつつある。
しかし、パッケージ化された知識や市場化された教育サービスによって構成される人生コースの選択は、教育の長期的な意味や生きかたに関わる存在論的な問いを必ずしも十分に満たしてくれるわけではない。それに対する違和感をもつ場合はもちろん、そのなかに適応するほど根本的な疎外感を経験することもあるだろう。「教育」への包摂それ自体のもたらす疎外=排除という問題である。「ひきこもり」の当事者が経験を語ることの困難と危うさ(第1章)、被爆体験を語ることばをめぐる力学(第5章)、教育への理想主義的な探求と教育からの排除が生み出す新しいつながりの可能性(第6章)といったテーマには、それぞれ観点やアプローチは異なるものの、教育への包摂そのものを問う共通の視点をみることができる。
もうひとつ指摘しておきたいことは、包摂のなかの排除を論じることが教育そのものの否定ではないということである。若者と教育をめぐる近年のさまざまな現象や文化には、現実の教育のなかでは十分に満たされない、信頼とかかけがえのなさといった価値への新たな関心や、それに基づいて現在と未来をつなぐ物語を自らのことばで紡ぎ出そうとする志向が顕在化しつつあるように思える。そうした関心や志向を二項対立的な言説のなかに回収するのではなく、教育の新しい可能性として掬い上げていく視点も重要である。
(…後略…)