目次
序論(武内房司)
第I部 越境する民衆宗教
第1章 「宝山奇香」考――中国的メシアニズムとベトナム南部民衆宗教世界(武内房司)
はじめに
一九世紀ベトナム南部社会
ベトナム南部反植民地闘争と宝山奇香
宝山奇香の教義をめぐって
結びにかえて
第2章 二〇世紀、先天道の広東・香港からベトナムへの伝播と変容(游子安/倉田明子:訳)
はじめに
資料の出所:ベトナムでの先天道道堂調査について
清遠蔵霞洞の創立から香港蔵霞精舎の創立まで(一八六三~一九二〇年)
起源を同じくするベトナムの蔵霞洞永安堂と香港の永楽洞(一九三〇年代)
南宗先天道のかなめとしてのベトナム蔵霞精舎(一九四九年)
広東清遠県に源流を持つ飛霞洞月庚堂(一九二八年建立)
東初祖の流れを汲む光南仏堂
結論 ベトナムに伝播した先天道の特徴
第3章 地震の宗教学――一九二三年紅卍字会代表団の震災慰問と大本教(孫江)
はじめに
出会い
救援米
提携
おわりに
第4章 道院・紅卍字会の台湾における発展およびその慈善活動――戦後日本の新興宗教とのかかわりを含めて(王見川/豊岡康史:訳)
はじめに
道院の台湾への進出と日本統治期における発展
戦後の道院・紅卍字会の台湾宣教と初期の活動
台湾における道院分院と慈善活動(一九五〇~一九六〇年)
結語 戦後の台湾道院と日本の新興宗教との関係
第II部 東アジアの民衆宗教と近代――近代中国の場合
第5章 道徳的価値を維持するための神の暴力――湖南省における関帝廟の事例(一八五一~一八五二年)(バレンデ・テレ・ハーレ/梅川純代・大道寺慶子:訳)
はじめに
関帝信仰
関帝の聖人伝記的選集
奇跡
・孝
・不道徳
・汚れた富
・言語の悪用
・力の悪用
・窃盗と強奪
・少女と女性への不当な扱い
・動物の虐待
・神聖なる癒し
・標準的シナリオ
・暴力の役割
価値観の由来するところ
第6章 清末民初期の明達慈善会と慈善事業(小武海櫻子)
はじめに
龍沙道と明達慈善会
・龍沙道の誕生
・明達慈善会へ
重慶における明達慈善会
・慈善団体の勃興
・都市空間の拡大
・明達慈善会について
・救済事業/実業家としての王雲仙
『新徳善刊』に見る「新たな道徳」
・「新たな道徳」とは
おわりに
第7章 五教合一論初探――道院・世界紅卍字会の教説を例に(宮田義矢)
はじめに
五教合一論の形成
・五教合一論の土壌
・『息戦論』中の五教合一論
・『息戦論』と反宗教思潮
道院・世界紅卍字会の五教合一論
・『太乙北極真経』中の五教合一論
・道院の五教合一論の特徴
・対抗言説としての五教合一論
・実践の場における五教合一論
おわりに
第8章 二〇世紀アジアの儒教と中国民間宗教(プラセンジット・ドゥアラ/梅川純代・大道寺慶子:訳)
はじめに
近代中国における宗教と世俗の交信
南洋における孔子
第III部 植民地期社会と民衆宗教――台湾・香港・ベトナムの場合
第9章 日本植民地初期、台湾総督府の宗教政策と宗教調査(張士陽)
はじめに
台湾総督府の宗教政策と宗教調査
・明治三一年(一八九八)の宗教調査
・明治三二~三六年(一八九九~一九〇三)の宗教調査
台湾旧慣調査における在来宗教認識の形成
おわりに
第10章 植民地台湾と斎教(胎中千鶴)
はじめに
台湾流入後の斎教
台湾仏教界と斎教
・出家仏教との接近
・台湾仏教界への参入
日本人の斎教認識
・日本人の見た斎教
・妻帯と三教合一
李添春と斎教
・「在家仏教」としての斎教
・李添春の迷いと揺らぎ
おわりに
第13章 仏領期ベトナム南部バクリュウ省ニンタインロイ村における農民闘争と宗教(チャン・ホン・リエン/高谷浩子・武内房司:訳)
はじめに
ニンタインロイ村
蜂起
宗教の役割――カオダイ教の影響
民族の友誼
おわりに
付論 民衆宗教研究の新たな視角とその可能性(島薗進)
付録 宗教雑誌文献解題
あとがき
索引
執筆者・訳者紹介
前書きなど
序論
(…前略…)
○第I部 越境する民衆宗教
第I部においては、民衆宗教の「越境」に焦点があてられる。中国で成立したこうした民衆宗教が日本・台湾・ベトナムなど国家・地域を越えて広がり、かつそれぞれの地域で定着していく過程が紹介・分析される。とりあげられるのは、メシアニズム的性格を帯びた五公信仰や強烈な救世指向を持った先天道、さらには二○世紀中国の宗教運動を代表するとも言える道院および世界紅卍字会の移動と交流の軌跡である。
武内房司論文「『宝山奇香』考――中国的メシアニズムとベトナム南部民衆宗教世界」(第1章)では、理想の帝王=「明王」の到来を待ち望む中国の五公信仰が一九世紀のベトナム・メコンデルタの開発社会に浸透していく中、華人社会を超えてベトナム人社会に広まり、「宝山奇香」と呼ばれる新宗教が形成されたこと、この宗教が一九世紀後半の反仏ナショナリズム運動を支える思想的基盤を提供したことなどが仏領期のアーカイブズ資料や現地での調査をもとに論じられる。
游子安論文「二〇世紀、先天道の広東・香港からベトナムへの伝播と変容」(第2章)では、広東・香港地域で活動していた民間宗教団体の一つ先天道がベトナムに伝播していく歴史がホーチミンでの調査成果をもとに詳細に紹介される。ベトナム華人社会における先天道の存在をはじめて明らかにした意義深い論考である。三教一致を標榜する先天道が、香港社会においては道教団体として活動しつつ、ベトナムにおいては仏教団体として受け入れられていった歴史は興味深い。
二○世紀東アジアにおける民衆宗教の伝播と交流を最も象徴的に示しているのが一九二○年代に山東で成立した道院(世界紅卍字会)と日本の大本教との出会いであろう。孫江論文「地震の宗教学――一九二三年紅卍字会代表団の震災慰問と大本教」(第3章)は、中国・南京にある中国第二歴史档案館資料や日本の外交史料館所蔵アーカイブズを用いて、両者の接触・交流が生まれる契機となった関東大震災後の世界紅卍字会による日本慰問団派遣の経緯やこうした民衆宗教団体をとりまく当時の政治状況を詳細に描き出している。
王見川論文「道院・紅卍字会の台湾における発展およびその慈善活動――戦後日本の新興宗教とのかかわりを含めて」(第4章)は、大陸・山東で成立した道院(世界紅卍字会)が植民地期さらには国民党統治期の台湾に伝えられ、地歩を確立していく過程が論じられる。植民地期に道院が浸透していくにあたって提携関係にあった大本教が関わっていたこと、戦後は国民党と関係の深い大陸在住の台湾出身者(いわゆる半山)を通じて合法化が図られていく歴史が、道院の扶鸞(神おろし)記録の分析などをもとに明らかにされる。
○第II部 東アジアの民衆宗教と近代――近代中国の場合
民衆宗教が地域を越えて各地に伝播していく時期、中国の民衆宗教世界においても大きな変化が生まれていた。第II部では、中国を中心に、主としてそうした近代的変容のあり方が分析・検討される。
湖南省湘潭の関帝信仰をとりあげたハーレ論文「道徳的価値を維持するための神の暴力――湖南省における関帝廟の事例(一八五一~一八五二年)」(第5章)は、『関帝全書』という関帝の神諭集をとりあげ、扶.ないし扶鸞と呼ばれる神おろしが秩序維持に果たしていた役割について多面的に検討している。清代においては、この扶.によって様々な神々を降臨させ、その神諭をまとめたと称するいわゆる鸞書がおびただしく出版された。ハーレ論文は特定の民衆宗教団体の歴史を扱ったものではないが、近代東アジアに広まった先天道や紅卍字会のような多くの民衆宗教が扶.による神諭を自らの権威の源泉とした背景には、こうした民衆生活に根付いた文化伝統の存在が前提となっていたのである。
小武海櫻子論文「清末民初期の明達慈善会と慈善事業」(第6章)は、民国期、長江上流域の租界地重慶に成立したある道教系宗教団体の発展の軌跡を追ったものである。内丹と呼ばれる気功術を重視する道教の一派龍沙道が江西からの移民たちによって重慶にもたらされ、都市社会の発展とともに慈善宗教団体へと変貌を遂げていく様子が重慶市档案館所蔵資料などをもとに詳細に紹介されている。明達慈善会の事例は、施薬などの慈善事業を推進することで社会的認知を獲得し、近代社会に適応しようとした中国民衆宗教の一つのパターンを示すものと言えよう。
地域・国家の枠組みを超えた移動は他者を発見する機会を与えるとともに、接触を通じて、新たな自己の形成を促す契機ともなる。民国期に登場した五教帰一論ないし五教合一論はその一つであろう。儒教・道教・仏教を融合させようとする指向はすでに一六世紀の中国に登場したが、二○世紀に入ると、キリスト教とイスラームを含めた宗教的ユニバーサリズムが主張されるようになる。宮田義矢論文「五教合一論初探――道院・世界紅卍字会の教説を例に」(第7章)は、道院・世界紅卍字会の掲げた「五教合一論」をとりあげる。宮田によれば、道院の「五教合一」論は諸宗教の単なる融合論を超えて、第一次世界大戦の終結を訴えた平和論に淵源を持ち、いかに戦争や宗教紛争を抑止するかという時代的な要請の中で提起されていたことを指摘する。道院の掲げた「五教合一」論や平和主義は、日本の大本教に見られる人類愛善の思想、植民地状況のもとでベトナムのカオダイ教が追い求めた宗教的ユニバーサリズムとも重なり合っている。問題関心を共有するこれらの民衆宗教の間で交流や提携関係が生まれていくのは自然な流れであったと言えよう。
ドゥアラ論文「二○世紀アジアの儒教と中国民間宗教」(第8章)は、二○世紀前半、康有為の思想的影響を受けつつ、オランダ領インドネシアのプラナカンと呼ばれる華人系住民の間で起こった孔教(儒教国教化)運動の意義を論ずる。すでに島薗氏のコメントにも詳しく触れられているが、政治と宗教と切り離して論じるのではなく両者の交信(トラフィック)に着目する必要を説く氏の論考は、民衆宗教からの視座が東アジアの政治・社会構造を捉える上で極めて有効であることを示してくれている。
○第III部 植民地期社会と民衆宗教――台湾・香港・ベトナムの場合
東アジア世界において民衆宗教の活性化を促したもう一つの磁場は、近代の植民地情況であった。第III部においては、台湾・香港・ベトナムを事例として、植民地体制下での民衆宗教の展開が扱われる。
張士陽論文「日本植民地初期、台湾総督府の宗教政策と宗教調査」(第9章)は、近年公開が進みつつある台湾総督府文書を用いて、台湾領有以降、日本の植民地当局がどのように台湾の在来宗教を認識していったかを概観する。日本の植民地当局が、数ある寺廟の中でも、喫斎などの禁欲的モラルを保持する斎教と呼ばれる大陸伝来の民衆宗教に多大の関心を寄せていたことなどが明らかにされる。台湾の斎教には、一七世紀初、浙江慶元県姚氏によって開創された龍華教、青.教の流れを汲む先天道などが含まれるが、いずれも喫斎を重視する教義を保持することから台湾において「斎教」と総称されるようになったものである。
胎中千鶴論文「植民地台湾と斎教」(第10章)は、日本より伝来した曹洞宗を通じて仏教に帰依しつつ、日本への留学を経て台北帝国大学理農学部助手、光復後は台湾大学農学院教授を歴任するなど、植民地エリートとしての道を歩んだ李添春が、台湾の伝統「斎教」を「発見」するに至るまでの宗教遍歴をたどる。李添春は時に批判的に取り上げるなど、斎教に対しアンビバレントな対応を見せたが、それはまた、民衆宗教の価値を認めつつ、近代のより普遍的な宗教的価値体系に接合しようとする試みでもあったのだろう。
倉田明子論文「香港における民衆宗教の諸相」(第11章)は、一九一○年代から三○年代にかけて香港に伝播した先天道および同善社、さらには中華人民共和国成立以降伝播した一貫道などの諸教派の歴史と現在を、これらの宗教団体の発刊した雑誌や宗教パンフレット、現地調査等によって明らかにする。香港においては、先天道および同善社などの民衆宗教が香港道教連合会に加わり「道教」として受け入れられるとともに、積極的に慈善事業を担うことで邪教イメージを払拭し社会的に公認されていったとしている。香港において、こうした民衆宗教が公的セクターのサービスの不足を補完する役割を果たしていたのであり、こうした特徴は、小武海論文の例示する重慶の明達慈善会やドゥアラ氏の定義する救済宗教団体とも共通しているとも言えよう。
今井昭夫論文「仏領期ベトナムの『善壇』と民族運動――『道南経』の思想世界」(第12章)は、植民地期ベトナムで起こった「善壇」運動を扱う。「善壇」とは、様々な神々を降臨させそのお告げを記録する施設ないしそこで開かれる集会を指し、清末民国期の中国大陸や台湾において扶.を通じ種々の神諭を発行した鸞堂に相当すると見られる。今井論文は、ベトナム北部ナムディン省ハックチャウ社に設立されたそうした善壇の一つ興善壇において刊行された『道南経』(一九二四年刊)の思想的背景を詳細に検討している。興善壇の主宰者であり『道南経』の作者でもあったグエン・ゴック・ティンは梁啓超の著した『中国魂』に接したが、それ以降、次第に壇に降臨する神々は愛国的色彩を帯びるようになり、ティン自身、インドシナ共産党に入党するに至ったという。五四運動期の知識人が同善社など民衆宗教を激しく攻撃し、反宗教同盟の結成へと向かう中国の場合とは異なり、ベトナムの知識人世界においては愛国啓蒙運動と民衆宗教が結びついたかたちで展開したのである。こうした特徴は、植民地台湾において降筆会が果たした役割とも共通しているように思われる。
チャン・ホン・リエン論文「仏領期ベトナム南部バクリュウ省ニンタインロイ村における農民闘争と宗教」(第13章)は、一九二七年五月、ベトナム南部バクリュウ省ニンタインロイ村の農民たちがフランス人地主の土地収用に抗議して起こした反仏蜂起と民衆宗教との関係を論じたものである。蜂起自体は短期間に鎮圧されたが、ニンタインロイの住民たちはカオダイ教のメッカであるタイニンに巡礼し、新たな儀礼や教義を学ぶなど、創設間もないカオダイ教が農民を結集する上で重要な役割を果たしていたことなどが、ベトナム第二国立文書館所蔵史料を用いて明らかにされる。タイニンから導入した「神霊と直接連絡をとりあう新しい信仰の儀礼」が、カオダイ教が盛んに実践した扶鸞を指していると見て間違いない。扶鸞などの新たな神の啓示伝達の技法がベトナム南部農民の潜在的な願望をすくい上げる機能を果たし始めたことが読み取れよう。
(…後略…)