目次
序章 人類学はなんの役に立つのか
第1章 贈るモノ、売るモノ、売っても贈ってもダメでとっておいて継承しなくてはならないモノ
第2章 家族や親族に基礎をおく社会など存在したことがない
第3章 子どもをつくるには男と女のほかに必要なものがある
第4章 人間の〈性/セクシュアリテ〉は根本的に非社会的である
第5章 個人はいかにして社会的主体となるのか
第6章 複数の人間集団はどのようにして社会を構成するのか
結論 社会科学をたたえる
訳者あとがき
文献
前書きなど
訳者あとがき
本書は二〇〇七年に出版された、モーリス・ゴドリエ著『人類学の再構築――人間社会とはなにか』(Maurice Godelier, Au Fondement des societes humaines : Ce que nous apprend l'anthropologie, Albin Michel, 2007)の全訳である。訳出に当たっては、二〇〇九年にVerso社から出版された英語版を参考にした。英語版には、著者ゴドリエの手になると思われる追記が挿入されており、その一部は訳注のかたちで本書にも掲載している。
モーリス・ゴドリエは、二〇〇九年に逝去したクロード・レヴィ=ストロースのつぎの世代のフランス人類学界を代表する研究者のひとりである。主流派経済学の批判や史的唯物論の再考など、人類学の枠を超えた幅広い考察を進める彼の知的営為はわが国でもよく知られており、彼の著書の日本語訳はすでに五冊を数えている。
(…中略…)
本書の内容について、蛇足の感がないでもないが、ふれておこう。『人類学の再構築――人間社会とはなにか』という題が示すように、本書はこれまでの人類学の成果を総括し、人類学が今後いかなる道を歩むべきかを示すという、野心的な内容をもっている。ゴドリエはそうした内容を、人類学の最新の議論を踏まえ、なおかつ人類学の一世紀を超える歩みを総括しながら、提示しようとするのである。
最初に、人類学の直近の議論に対するゴドリエのポジションについて。本書の出発点は、一九八〇年代以降の人類学批判、民族誌批判の再考にある。一九八六年のジェームズ・クリフォードとジョージ・マーカスの編になる『文化を書く』は、人類学に一時代を画すものであった。そこで問われていたのは、人類学の作業が必然的に含む権力関係の問題であり、人類学者が研究対象をどのように再現――表象するかという認識論的課題であった。
まず権力関係についていえば、人類学者の多くは西洋の出身であり、彼のフィールドの多くは第三世界、しかも過去に「未開社会」と呼ばれていた社会である。人類学者はしばしば旧植民地宗主国の出身であったが、そうしたポジションがはらむ権力関係に人類学者はどれだけ敏感であったか。現代においても、人類学者は自国と対象国とのあいだの経済格差のなかで作業し、しかも現地の人びとの語りを記録し、行動を観察した上で、それを一方的に編集して印刷物として出版する。そうした立場の不平等と権力の不均衡は、人類学者の著作のなかにどのように反映されているのか。マーカスらのこうした問いに対して、ゴドリエの立場は明確である。人類学者が他国で作業をするときにかぎらず、自国で調査研究するときでも、そうした権力作用は介在している。とすれば、それを自覚化することは不可欠だが、それにあまり拘泥する必要はないし、必要以上に倫理化する義務もない。知と権力の相関の課題は、人類学という枠を超えた知の制度そのものに関わる問題であるのだから、人類学がそれを専任事項として引き受ける必要はないし、もしそうしたなら、人類学を善悪二元論に押しこむ危険がある。むしろ人類学がおこなうべきは、現代世界の理解に人類学がどのように貢献できるかを考えることであるはずだ。
一方、『文化を書く』以降問われてきた、人類学的調査とその報告書の作成に関する認識論的課題とはつぎのようなものであった。人類学者はひとりでフィールドに入り、しかも彼/彼女の調査は対面調査であるので、どうしても主観の要素が入りこんでくる。そのような作業から生まれる記述や分析は、どのようにして普遍性を有する科学であると主張できるのか。さらに、テクストは他のテクストを指示するだけであり、人類学者がつくるテクストが「客観的」な現実を指示することができるのか。そもそも、テクストの外部に客観的な世界が存在するのだから、人類学者は技巧を凝らしてその再現─表象につとめるべきだというのは、単純なリアリズムを前提にした思いこみではないか。これに対し、ゴドリエはつぎのようにいう。たしかに人類学者の調査は個人的なものであり、主観的要素が入りこんでいる。そして、人類学という学問の固有性は、まさにそうした主観性の投入にある。しかし、人類学者は主観や五官を動員して得られたデータと認識を、フィールドで多数の人間の語りや行為に反照させることで、その妥当性を検証することができる。かくして、主観的・個人的な方法で得られた解釈や説明図式であっても、一定の客観性・一般性を獲得することができるのであるのだから、右の批判は当たらない。
一方、世界の客観的実在に関していえば、外部に客観世界が存在し、それが私たちの生活や認識に大きな影響を与えていることは、二〇〇一年九月のニューヨーク世界貿易センタービルの爆破がなにより明確に示している。とすれば、人類学の課題とは、人類学における客観性やレトリックを云々することより、客観的現実がどのようにして生み出され、どのように人びとの生活に影響を与えているかを、あくまで事例に沿いながら緻密に分析し報告することであるはずだ。しかも、あの爆破に際して、「新たな十字軍のはじまりだ」と断言して戦争を開始したアメリカ合衆国大統領の言動に見られるように、現実はつねに物理的実在と想像的解釈の複合として構成されている。とすれば、そのような現実の理解のためには、社会科学と人文科学、社会研究と文化研究の総合が必要なはずであり、そこにこそ人類学がめざすべき方向性があるのではないか。
(…後略…)