目次
序章 セクシュアリティの多様性と差別・排除(好井裕明)
第1章 ヤオイはゲイ差別か?――マンガ表現と他者化(堀あきこ)
はじめに
1 ヤオイの特異性
2 ヤオイはゲイ差別か?
3 ヤオイの描く新たな地平
おわりに
第2章 レズビアンの欲望/主体/排除を不可視にする社会について――現代日本におけるレズビアン差別の特徴と現状(杉浦郁子)
1 「レズビアン差別」を論じる、ということ
2 性的欲望をジェンダー化する制度
3 「女であること」と「女性の同性愛的欲望」――制度の稼働を記述する
4 「男らしさの獲得」と「女性の同性愛的欲望」――1990年代、不可視化の加速
5 不可視化に抗う
第3章 男同士の結びつきと同性愛タブー――スポーツをしている男性のインタビューから(風間孝・飯田貴子)
はじめに
1 「男っぽい」女性選手と「女っぽい」男性選手
2 レズビアンへの認識
3 ゲイへの認識
4 異質なものの排除と男同士の結びつき
おわりに
第4章 性同一性障害のカウンセリングの現実について――ここ十数年の調査から(鶴田幸恵)
はじめに
1 性同一性障害のカウンセリング
2 これまでの社会学的研究
3 これまでの研究からは見えなかった医療現場の現実
4 それでも求められる女/男らしさ―その一方での論理的困難の回避
おわりに――地域的に・情報収集能力的に・経済的に、「治療」から排除される現実
第5章 トランスジェンダーをめぐる疎外・差異化・差別(三橋順子)
はじめに――疎外・無化・病理化
1 医学による女装者の差異化
2 医学によるニューハーフの差別化
3 法律による「子有り」の差別化
4 差別者としての性同一性障害者
おわりに
第6章 職場とマタニティ・ハラスメント――「迷惑をかけない働き方」という差別(杉浦浩美)
はじめに
1 「被害の語りではない語り」に見え隠れする困難
2 「迷惑をかけない身体」を生きること
3 「身体の事情」を訴えることの有効性
4 「身体の事情」が共有される職場
5 「ケアフル・パーソン」モデル
前書きなど
序章 セクシュアリティの多様性と差別・排除(好井裕明)
(…前略…)
1970年代以降の、全世界的な性的マイノリティの解放運動の影響もあり、また同じ時期に日本で起こったゲイスタディーズや当事者たちの異議申し立て運動の成果もあり、確かに以前のような露骨で素朴な排除や差別は影を潜めているかもしれない。これは性的マイノリティをめぐる私たちの常識を変革していく一つの大きな成果と言えるだろう。しかし、こうした成果が世の中に確実にある意味を与えていく一方で、私たちの多くは、性的マイノリティのことを自分はよく理解しているのだということを外に向かって伝える“受容の作法”を習得していくのである。
そして、この“作法”の内実こそが問題なのである。自分と性的な嗜好が異なる人々が存在することは受容する。ただし、それは、彼らが自らの日常生活世界を具体的に侵犯してこないかぎりにおいて、なのである。男性同性愛、女性同性愛を生きる人々の存在を認めたとしても、自分が生きている根底に流れている異性愛主義や異性愛が当然という意識やそれをめぐる実践的な処方知を一切見直そうという志向は、そうした受容には欠落しているのである。
荒っぽく言えば、素朴に排除や差別をしていた頃よりも、なまじ相手がわかった風に振る舞い、当事者を理解していることを外に示すような“受容の作法”を身につけたうえで、自分が生きている生活世界からは、しっかりと理屈をつけ、排除していく現代のほうが、より微細で陰湿な排除が日常に息づいていると言えないだろうか。
さて本巻では、ゆるやかではあるがこうした問題関心を伝えたうえで、七名の気鋭の研究者に、いま自らの関心に響いていることを自由に論じてもらった。
堀あきこは『欲望のコード―マンガにみるセクシュアリティの男女差』(臨川書店、2009年)で、レディースコミックなど女性が楽しむジャンルにおける性表現を詳細に検討している。男性が楽しむとされるポルノコミックについての批判的解読はこれまでいくつかなされてきているが、女性が楽しむ性表現の解読はまだ少なく、興味深いものだった。そこでコミックにおけるセクシュアリティについて堀に自由に論じてもらうことにした。
(……)
女性同性愛者はなぜ、あえて「レズビアン」というカテゴリーを使うのか。杉浦郁子は、ホモフォビアなど男性同性愛への差別に比べ、現代社会によって、「レズビアン差別」をいかに「見えなくさせられている」のかを論じている。掛札悠子は1990年代初頭にすでに「レズビアン差別の特徴は不可視性にある」と喝破しており、杉浦は掛札の論理や思いを手がかりとしながら、「不可視性」が日本社会のなかでどのようにして作り出されているのか、またそれがもたらす問題とは何かを明らかにするのである。
(……)
風間孝・飯田貴子は、「『同性愛』について語られる場合、念頭におかれているのは男性同性愛であり、女性同性愛であることはほとんどない」という杉浦郁子が論じた「不可視性」という問題を意識しながら、男性のゲイに対する意識のありようを、彼ら自身が行った男性へのインタビューの語りから例証しようとする。風間・飯田は「ゲイへの嫌悪感を分析するうえで、スポーツをしている男性」をインタビューの対象として選んでいる。なぜなら男女別に行われている近代スポーツでは「同性の選手・仲間の意識や感情が大きく作用」するだろうし「未だ女性を『二流』とし、またホモフォビアが強固に残存させる力学」が強く働いているからである。つまり、通常の男性が抱いているゲイへの嫌悪感がスポーツをすることでより鮮明に語りだされる可能性があるからなのである。
(……)
鶴田幸恵は、これまで一貫して性同一性障害の問題をエスノメソドロジーの見方を活用しながら調査研究をしてきている。本稿でも当事者と臨床心理士、精神科医との性同一性障害をめぐるカウンセリングのトランスクリプトをもとに論述を進めている。「かつては、性同一性障害の『治療』の第一段階である『精神療法』すなわちカウンセリングに行くのは『治療』をしようと『決めた』人だった」という。しかし最近は自分が性同一性障害かどうかよくわからず「治療」すべきかどうか迷っているので、カウンセリングに行くという人が増えているという。そのような多様性に合わせ、関東地方では、カウンセリングが受けられるようになっているそうだ。
(……)
三橋は、性同一性障害という概念が世の中に広がっていく過程で、何が「正当化」され、何があらたに排除されていったのかを、医学と法学での議論を読み解きながら、明らかにしていく。医学によって女装者が異質なものとして切り出され、さらにニューハーフが差別化されていく。医学が科学という名のもとに性同一性障害を規定するとき、そこで示されるトランスジェンダーなどのマイノリティへの理解は明らかに歪んだものである。それは科学的言説などと呼べるものではなく、医師たちの日常的で俗世間的ないびつな“常識”が反映されているのである。三橋は自らの経験をもとに、ニューハーフたちがこうした“常識”とは異なることを主張し、その差別性を問い糾していくのである。
(……)
恥ずかしながら私は、杉浦浩美の『働く女性とマタニティ・ハラスメント――「労働する身体」と「産む身体」を生きる』(大月書店、2009年)を読むまで、マタニティ・ハラスメントという言葉も事実も知らなかった。杉浦の本を読み、すぐに本書に書いてもらおうと決めたのである。そのとき、私が杉浦にお願いした点は一つだ。マタニティ・ハラスメントは確かに妊娠期の女性の身体に直接起こる問題なのだが、このことは、確信犯的に、または意識せずにハラスメントを犯してしまう男性の問題なのではないか、その点を中心にして論じてほしいという願いである。
(……)
(…後略…)