目次
第1部
〈昭和〉を撃つ
はじめに
1 神仏習合の宗教
一、日本仏教とヒンズー教
二、釈尊ブッタの仏教
三、日本の儒教
補足 〈宗教はアヘン〉か?
2 身分制度の成立
一、天皇制とケガレ観の形成
二、近世における身分制度の成立
3 明治とはいかなる時代か
一、江戸末期の特徴
二、明治維新と「攘夷」
三、殖産興業─官軍産体制
四、〈みこし─明治天皇〉制
五、愚民政治と伝統的規範
4 戦前昭和・戦後昭和を撃つ
一、一五年戦争とは何だったのか
二、戦後国体=虚妄の民主主義の出発
補足 ちんぷんかんぷんな「万世一系」説
おわりに 市民社会と非勅語世代の登場
第2部
1 天皇制と日本文化についての覚え書
一、天皇(制)を免罪にする風潮
二、日本的風土と古代天皇制
三、近代天皇制とファッシズムについて
四、急進的な超国家主義をめぐって
1 資本主義化による伝統的秩序の崩壊
2 急進主義的超国家主義の二つの流れ
3 農本主義の特徴といくつかの流れ
4 北一輝の思想的特徴と性格
5 「近代」と「復古」の融合物──日本ファッシズム
おわりに
2 封建的遺制論批判と部落解放運動
一、新たな局面を迎えた部落解放運動
二、部落の自然解消論と純粋資本主義
三、身分制支配の歴史的本質的根拠
四、共通の根っこを撃て
第3部
1 自己崩壊か、人間解放の道か
はじめに
一、自己崩壊が始まった
二、日本的〈規範〉・「日本的なるもの」との格闘
三、自立へ向けてのひとつの前提
2 何を、いかに、すすめるべきか
一、かちとるべき新たな価値観
1 日本的勤労観の打破から、反合理化・反生産力主義へ
2 反差別・反管理の闘いを
3 戦略的な環としての〈地域〉
二、何を、いかに、めざしていくのか
1 《横結》の時代へ
2 高度管理社会をいかに突破するか
3 横断的ネットワークをどうつくるか
あとがき
前書きなど
あとがき
学生運動、労働運動、反差別人権運動と、“運動”を約四〇年間休む間もなく、続けてきた。大変なことのようであるが、もともと私は、楽観主義の性格であり、また、酒などで適当に息を抜きながらの行程だったと思う。とはいえ、二七歳まで続けた学生運動の間は、当然のことだが、無収入でメシも食えない毎日だったので、息を抜くどころではなかった。同棲していた彼女(つれあい)と二人で一日一食(食パン一斤)ということも多々あった。実家は貧農から一人経営の商店になったが苦しい生活で、高校卒業以降、四年間でささやかな仕送りも打ち切られたので、浪人時代からアルバイトはなんでもやった。このような貧乏学生が、多かったと思うし、また闘う仲間でもあった。
ベトナム反戦闘争、日韓、原潜闘争、一九六六年の早大全共闘の闘いを皮切りにした全国各大学での全共闘、そしてそれらの闘いの高揚をうけて結成された三派全学連の「異議申し立て」の運動は、社会党や共産党のもっぱら議会主義に収束させる運動を、質量において凌駕し、当時の社会に新鮮な衝撃・問題提議をしたと思う。それゆえに支配者たちを少なからず震撼させたと思う。また学生戦線での史上初めての牧歌的な共同戦線、学生と青年労働者との共闘も、画期的なものだった。しかし新左翼党派が前衛主義(宗派主義)という幻想に呪縛されたことによって、共同戦線は破壊され、内ゲバの激化という事態になってしまった(その中身は本書第三部でふれているので、ここでは省略する)。
(…中略…)
運動しながら考えたひとつは、日本という国は、一筋縄にいかない、異常な国ではないか、ということである。世界第二位のGNPをもちながら、世界では経済を除いては何も評価されていない。東南アジアをはじめとして、第三世界の諸国には傲慢であるが、西欧、とりわけアメリカに対してはペコペコである。ナショナリストではない私さえ、恥ずかしくなるような有様である。すなわち、日本では何かが決定的に欠落しているのだ。つまり世界に発信する知的なもの、価値観が希薄なのである。たとえば、同じ道をたどったドイツの戦後とは明らかに違うのである。「あいまいな日本」(大江健三郎)という以前の問題であろう。つまり、なぜ「あいまい」になったのか、その歴史的な因果の解明が必要なのだと思う。
(…中略…)
このような歴史を背負った私たちにとっては、歴史的な今を超克するためには「寝た子を起こす」ような作業が必要になってくる。多くの人が、触れたくないようなこと、関心をもちたくないこと、つまり普遍的なことがらをラディカルに掘り下げていかねばならない。たとえば「あの戦争」について、「天皇制」について、「宗教」について、「差別構造」などについて、さらには「人間解放」についてである。これらについて「あいまい」にするわけにはいかないと思う。
世界でも日本でも“今”はますます混沌としている。現在、七人に一人が飢えているという世界。各国における深刻な格差拡大と新たな貧困・窮乏化は、忘れかかっていた「階級社会」の再到来をうかがわせている。実体経済と乖離した投機マネーが、世界中を駆け巡り、庶民を愚民のごとく扱う私的利益追求だけの政治屋たちが、世界でも日本でもうごめいている。このことは、頭に赤いシャッポをした資本主義国・中国、新官僚族の支配する資本主義国・ロシア、赤色ファシズム国・北朝鮮も例外ではない。
とりわけ日本は、述べたような歴史的な負の累積をかかえているがゆえに、混沌大国といってもいいほど諸問題が深刻に山積している。そして人びとの「自己崩壊」は、私が指摘した(本書 第三部参照)当時より、はるかに深刻である。鬱積した怒りが、出口がみいだせないまま放置されている。とりわけ若者や弱者が。
自立と横結は急がねばならない。運動は、敵の支配様式と同じ様式となってはならないと思う。つまり“タテ割り・ムラ社会”と対抗する際、前衛主義(宗派主義)ということになっては、あるいは逆にムラ的な馴れ合い・群れ合いというものになっては、過去に犯した誤りを繰り返すことになるだろう。つまりタテではなくヨコに結合した開かれた関係、〈横結〉を通した〈自立〉ということが、極めて重要であると思う。混沌大国・日本の超克はこうして可能となるのではないか。本書は、そのためのささやかな問題提議であると思っている。
今回、書き下ろしの「昭和を撃つ」以外の四つの論文は、それぞれ一九七六年、八三年、八八年、八九年のものである。過去の論文はいくつかの修正や訂正が必要と思う箇所があるが、私個人の歴史的、思想的な歩みを諸氏に批判的に検証してもらうためにもそのまま載せた。また、「昭和を撃つ」は過去の論文となるべく中身が重複しないようにした。したがって、ぜひ全文を読んでいただくことをお願いする(!)。また、最後の二稿は、紙数の関係で一部、削除したことを断っておきたい。