目次
まえがき
序章 「誠信堂記」をよむ—雨森芳洲と玄徳潤—
一、芳洲の「誠信堂記」
二、誠信堂
三、草梁倭館
四、堂記文にみる草梁庁舎(草梁公廨)の修築
五、玄徳潤という人物
六、「誠信」ということ—交渉の実態と「誠信」のテーゼ—
おわりに
第一部 雨森芳洲
第1章 芳洲の晩境とその外的情況
はじめに
一、芳洲の死
二、芳洲の晩年—晩境とその実態—
三、芳洲の裁判使行前後
四、芳洲書簡にみる当時の実情
五、芳洲の子息(1)—三男・俊之允(玄徹)と長男・顕之允(清元)—
六、芳洲の子息(2)—次男・徳之允(賛治)の場合—
おわりに
第2章 芳洲と朝鮮通信使—詩文唱酬を通して—
1 正徳辛卯信使(一七一一)
はじめに
一、正徳辛卯信使来日前後の時代背景
(一)新井白石の改革と犯諱事件
(二)日朝の感情と中国認識
二、正徳辛卯信使に伴う人間模様
(一)壺谷・南龍翼と泛叟・南聖重
(二)錦谷・玄徳潤の能書
三、詩文唱酬にみる人間的交わり
(一)山県周南の場合
(二)当壮菴一族の場合
おわりに
2 享保己亥信使(一七一九)
はじめに
一、鄭幕裨録『東槎録』の体裁と著者・鄭後僑について
二、一八世紀初頭の時代背景
三、懐疑の中の交隣
四、鄭後僑の人物像
五、鄭後僑の人間性
六、日本の文人との唱酬(1)—芳洲・霞沼との場合—
七、日本の文人との唱酬(2)—関白の十学士・林信篤父子らとの場合—
おわりに
付録 鄭後僑による日本見聞録(『扶桑紀行』上巻 巻末)
第3章 芳洲の僧形と還俗—芳洲の思想的背景をめぐって—
はじめに
一、少年期の芳洲
二、僧形から還俗へ
三、芳洲の三教(儒・仏・老)観
四、芳洲の禅仏教理解と晩年の境地
五、仏教への関心と傾斜
おわりに
第二部 玄徳潤
第1章 南楊州市郊外の玄徳潤の墓碣碑銘をよむ
はじめに
一、玄徳潤の墓碣碑の所在
二、玄徳潤の墓碣碑銘
三、碑文に係る史実と関連事項
(一)「嘉善大夫行龍驤衛副護軍」「貞夫人昌原黄氏」
(二)「国家置訓導官釜山」
(三)「錦谷玄公、至正色以臨之、倭敬憚不敢肆」
(四)「大修廨宇、■供米数百石。事□聞賜秩緋玉。及再任、減送使米歳百石、以宿弊、陞従二品」
(五)「既帰。釜山人立碑頌徳。自置訓導来未有也」
(六)「蓋公仕象院積四十年」
(七)「系出驪州」
(八)「其先曰守高麗令同正。高祖曰壽謙□贈判決事。曾祖曰虎幼学。祖曰哲祥通政。考曰漢一資憲」
(九)「其自日本若馬島還」
(一〇)「◆装動千金、輙分与昆弟、以及知旧貧者」
(一一)「能詩工草隷」
(一二)「与柳下翁言詠跌宕」
(一三)「太史采而録之」
(一四)「而今□国有南憂。憂在乏人。益可以思公也」
(一五)「進士昌山鄭来僑」
おわりに
第2章 玄徳潤の閲歴
はじめに
一、 玄徳潤の閲歴とその関連事項
二、史料「誠信堂記」—権孚・李重協・玄徳潤—
(一)府使権孚記(一七二八)
(二)府使李重協記(一七三二)
(三)訓導玄徳潤記(一七三〇)
第3章 川寧玄氏倭学訳官の系譜—玄徳潤の後裔たち《近世日朝交流を支えた朝鮮側一家系の系譜》—
はじめに
一、朝鮮通信使と川寧玄氏
二、『譯科榜目』にみる川寧玄氏の倭学登科者たち
三、渡海訳官使と川寧玄氏
四、渡海訳官使の実態—玄泰翼をめぐって—
おわりに
付篇 金●『扶桑録』
解説/金●『扶桑録』をめぐって
釈文/金●録 扶桑録
あとがき
初出一覧
史料・参考文献
索引
(■=「益の旧字」が偏、旁は「蜀」)
(◆=上から「士」「ワ(かんむり)」「石」「木」)
(●=さんずい偏、旁は上に「合」下に「羽」)
前書きなど
まえがき
雨森芳洲は多面的な人である。儒学をもって対馬藩に仕える家業人でありながら、彼の関心とその業績は、単に藩主への講学(『一字訓』)やその心掛けを説く(『治要管見』)だけでなく、多くの漢詩文や和歌を詠み(『芳洲詠草』)、随筆を草し(『たはれぐさ』『橘茶話』)、朝鮮の歴史とその国民性を説き(『朝鮮風俗考』)、またそれに基づいて日朝通交のあり方を藩に献策し(『交隣提醒』)、通詞の養成に努め(『詞稽古之者仕立記録』『韓学生員任用帳』)、さらに、弟子の教育に当たっては、木門の学統を特徴づけると思われる、話しことばを重んじる現場主義を貫き、その方面の著作をも残している(『音読要訣』『交隣須知』『全一道人』)。その及ぶ範囲は、漢詩・漢文学や儒学は勿論のこと、国文学、歴史学、民俗学、言語学および言語教育学、さらに文化人類学までも網羅して余りある。
芳洲は、このような実に該博な儒学者でありながら、一八世紀日朝間の人間理解と和解に努め、両国間の文化的また政治的な折衝にも当たった、稀有の、そして真の国際人であった。
芳洲と向き合うとき、私はあるときは共感に胸打たれながら、またあるときは畏敬の念に圧倒されながら、多くのことを学ばせて頂いてきた。その意味で、芳洲はいまなお私の到底かなわぬ恩人である。このような大文化人を前にして、本書で触れえたのは、そのうち僅かに日朝の文化的折衝に関わるところと、彼の思想性の一部にすぎない。
一方、芳洲についてはその方面の識者によって、これまで多くのことが語られてきた。しかし、朝鮮側の彼の相方であった玄徳潤については、従来語られるところが少なかったように思われる。その意味で本書では、彼と彼の一族の倭学訳官としての活躍の跡を、できるだけ詳しく辿ろうと試みた。
また、私は、雨森芳洲という多面的な人物の全体像に少しでも近づくためには、従来の学問の枠を越えた理解が必要ではないか、とかねがね考えてきた。それぞれの分野の碩学からは、それは学問ではないとの声も聞こえそうだが、本書ではそれを承知の上で、敢えて文学と歴史学との橋渡しを試みようとしたつもりである。人間の理解は学問分野を遥かに超えて広く深いものだと思うからである。
しかし菲才の上に、もともと言語学、それも意味論といった、全く専攻を異にする、しかも晩学の一学徒にすぎない私には、見落とした史(資)料は勿論のこと、史(資)料の読み違いや、また理解の至らぬ点も多々あることだろうと思う。それらは今後の課題とさせて頂くとともに、読者諸賢の温かいご指摘、ご批正を切にお願い申し上げたい。
二〇〇八年 浅春 信原修