目次
日本語版への序文
序文
第1章 問題の提起
1.植民地的開発の帰結
2.開発論の特徴と問題点
3.分析方法
第2章 農業開発
1.農業開発の現象
1)農業投入の変化
耕地面積
潅漑施設
作物の品種
肥料投入の拡大
2)農業生産の増大
米穀生産の増大
畑作物生産の増大
2.農業開発の本質
1)日本人所有耕地の規模と割合
2)土地生産性を考慮した日本人所有の田面積推計
3)地主制の拡大
4)民族別配分と日帝下朝鮮農業開発の評価
第3章 工業開発
1.工業開発の現象
1)鉱工業政策
朝鮮総督府産業政策の変化要因
日本企業の対朝鮮投資増大要因
2)産業構造の高度化
3)工業生産様式:工場工業と家内工業
4)工業構造の高度化
5)雇用構造
2.工業開発の本質
1)民族別工業生産と開発の主体
民族別工業生産額
民族別資本
日本人大資本
2)二重構造
日本人大資本の近代的大工業
家内工業、及びその延長線上にある零細工業
専業的商品生産
自給的及び副業的生産
中小工場工業
3)軍需工業化
中小工業維持育成政策
企業許可令
企業整備令
軍需会社法
第4章 近大教育と技術の発展
1.教育
2.技術と技能
第5章 不平等と差別
1.経済成長と生活水準
1)1人当たりの穀物消費量
2)1人当たりの消費
3)階層別・職業別所得と消費
2.経済的不平等と民族差別
1)賃金における民族差別
2)昇進における民族差別
第6章 連続と断絶——開発の遺産
1.日本人企業資産の南北朝鮮地域別分布
2.日本人物的遺産の活用状況
3.朝鮮戦争の被害
4.物的遺産の価値評価
終章 開発無き開発
付表
前書きなど
序文(一部抜粋)
1995年8月、ワシントンの国立航空宇宙博物館(The National Air and Space Museum)で、エノラ・ゲイ(Enola Gay)特別展示会が開催された。この展示会はアメリカの第2次世界大戦勝利50周年を祝う行事の1つであり、広島に原爆を投下したB29機の胴体の一部を展示していた。その飛行機の愛称が、まさにエノラ・ゲイであった。
多くの観覧客が殺到したため、他の展示場とは違って定められた時間にだけ入場することができた。入場の順番を待つ間、展示場の入口の大型スクリーンではエノラ・ゲイの乗務員が、なぜ原爆を投下せねばならなかったのかを説明するビデオが上映されていた。観覧客の一部は、顔を上気させているほどであった。時には拍手して歓声を上げながら、時にはその場の唯一の東洋人であった筆者をちらりちらりと眺めたりしていたが、その目つきから、いつかの時と同じものが感じられた。
「私は韓国人です。そして韓国人たちも(原爆の:訳者)被害者です」と言いたかった。そしてもう一方では、その不幸な事件で、韓国の独立が繰り上げられたという思いもしていた。
当時、筆者はアメリカ国立文書保管所(NARA)で、まるで宝探しのような資料探しに没頭していた。本書に使った連合軍最高司令部(SCAP)の資料も、そこで探したものである。筆者が航空宇宙博物館に行くようになったのは、NARAに資料を探しに来ていたある日本人教授に誘われたためであった。その教授は、筆者が日本に滞在した時も、またアメリカで一緒に資料調査をする時も、多くの助けとなったありがたい人である。彼は、広島への原爆投下で30万人の日本人が犠牲になったが、展示場の説明文では3万人死亡と縮小されているのが大変不満であった。そして筆者がその歪曲された史実の現場を確認してくれたらという思いがあったようである。
広島に投下された原爆。事実は1つだがアメリカ人、日本人、韓国人が受け入れるものはそれぞれ違っていた。1つの事実に対する評価や解釈が、違うこと、まさにそれが『歴史とは何か』という本の中でカー(E. H. Carr)が言いたかった歴史だろう。
原爆投下に対する評価が互いに違うように、日帝時代の日本の朝鮮支配の過程と内容、及びその帰結に対する解釈と評価も、人により違う。国によっても違うし、同国人でも現状認識と未来への展望が変われば、すでに過ぎ去ってしまった過去の事実の解釈と評価も変わるのである。
(…中略…)
本書は、帝国主義的侵略を擁護する人々の掲げる最も代表的な主張の1つである「開発」というものが、どれほど無意味なものであったのかを明確にするために書かれた。また、朝鮮で開発が一定の意味を持つとすれば、それは朝鮮人のための開発につながらねばならないが、民族別に極端に不平等な生産手段の所有関係と分配の不平等、またそれらから派生する差別などが原因の植民地体制が続く限り、朝鮮人たちにとって本当の意味での開発があるはずがなかったということを明確にするだろう。また日本の植民地支配が終わった時、日帝時代を通じて行われた驚くべき「開発」がまるで蜃気楼のように消えてしまい、解放後の韓国経済はまた日帝時代の初めの状態に戻ってしまったことをあらわにするだろう。そして日帝時代になされた開発の遺産が、解放後の韓国の工業化過程で非常に制限的な役割しか果たすことができなかったこと、帝国主義的侵略を正当化するために掲げる「開発」の実際は、「従属」と「差別」の強要であったことを明確にするのである。自国の利益を貫徹するために、隣国の自由意志を踏み躙る帝国主義的侵略が、野蛮化、反文明化の過程であったことを明らかにするところに、本書の目的がある。
もちろん、それだけで日帝時代の開発のすべての側面を扱ったとは思わない。日帝時代になされた各種の制度的変化と近代的諸要素の導入が、解放後の韓国社会の展開過程に肯定的な役割を果たした側面もあり、また他方では植民地支配で受けた深い傷と、南北分断と朝鮮戦争、及び休戦状態という後遺症が未だに癒されないまま残されているため、こうした否定的な側面についての評価が同時に行われなければ、日帝支配に対する総合的評価も完全なものとはならないだろう。しかし以上の要因は、客観的評価が難しいため、本書では扱わない。
(…後略…)