紹介
連歌は作品として、「百韻」であり「千句」である。連歌作品を、読む。連歌の本質を、考える。
連歌作者心敬が張行した『落葉百韻』『寛正六年正月十六日何人百韻』『「撫子の」百韻』の訳注と、心敬の連歌についての論考を収める。
本書からは、京都在住の心敬の詩歌、詩学の精神が、宗祇ら同時代を生きた連歌師の作風や動向と共に浮かび上がり、百韻をさばいていく連歌師と一座の人々の一句ごとの息づかいがよみがえってくる。
【これは撰集であるが、…複数の読者の様々な見解や解釈が、それぞれに有益であるとともにいかに示唆的かつ刺激的であるかを痛切に感じた。連歌の実作の場もこのようなものではなかったかと想像する。あらためて連歌の注釈は個人ではなく、複数の読み手が必要だという思いは深くなっていった。
今回、伊藤さんに、二人で心敬連歌を解読する機会を提案されて非力ながらお受けしたのは、如上の経験を生かした試みをより深化させた形で実現できると考えたからである。】…「あとがき」(奥田勲)より
○『落葉百韻』
本能寺第四世日明上人が、心敬を宗匠に迎え、心敬や正徹とも関係の深い清水寺、東福寺の僧や、畠山氏の被官である武士たちを連衆として張行した百韻。一条兼良の発句を拝領している。成立は康正二年(1456)から寛正六年(1465)の間である。
○『寛正六年正月十六日何人百韻』
寛正六年(1465)正月十六日に、心敬を宗匠として、専順、行助、宗祇、宗怡ら連歌師と細川氏と関係の深い僧実中らが張行した百韻。宗祇と心敬がはじめて同座した百韻連歌かと考えられ、有力連歌師の出句数も多く、応仁の乱直前の京都の連歌界の状況がわかる。また『所々返答』第三状の題材になった付合も含まれる百韻である。
○『「撫子の」百韻』
心敬を宗匠に、細川勝元とその家臣らが専順、行助、宗祇ら連歌師と張行した百韻。発句は勝元が詠んでいる。心敬が在京時に密接な関係をもった細川右京兆家とその廷臣が連衆であり、多くの連衆が『熊野千句』と重なり、『熊野千句』と近い時期の張行と注目される。成立時期は文正元年(1466)夏以前。
目次
凡 例
Ⅰ 心敬百韻訳注―心敬参加百韻三種の注釈と研究
1 落葉百韻
ⅰ 落葉百韻 調査報告・翻刻
ⅱ 落葉百韻 訳注
2 寛正六年正月十六日何人百韻
ⅰ 寛正六年正月十六日何人百韻 調査報告・翻刻
ⅱ 寛正六年正月十六日何人百韻 訳注
3 「撫子の」百韻
ⅰ 「撫子の」百韻 調査報告・翻刻
ⅱ 「撫子の」百韻 訳注
訳注引用文献典拠一覧・訳注参考文献・式目照合表
Ⅱ 連歌宗匠心敬論
1 心敬の詩学―『寛正六年正月十六日何人百韻』の宗祇付句評から
一 『寛正六年正月十六日何人百韻』
二 「花橘」の付合と『所々返答』における作句指導
三 「橘」の景
四 「松風」の景
五 「松が枝」の付合と『所々返答』における作句指導
六 心敬の詩学
2 心敬と本歌取―『落葉百韻』の「古畑山」の付句から
一 はじめに
二 「古畑山」の付合
三 心敬の教え
四 「すごし」によるイメージの造型
五 「古畑山」の句と時の流れ
六 本歌から句へ
3 心敬における「夕べの鐘」
一 はじめに
二 和歌・連歌の「夕べの鐘」
三 「涙とふ聲」
四 心敬の詠みいだす鐘のモチーフ
五 心敬の「夕暮時」
六 おわりに
4 連歌の張行
ⅰ 本能寺と連歌―『落葉百韻』について
一 『落葉百韻』
二 『落葉百韻』連衆
三 『落葉百韻』成立時期
四 『落葉百韻』と本能寺
五 法華宗寺院における文芸
ⅱ 『落葉百韻』における宗匠心敬
ⅲ 『「撫子の」百韻』の考察
一 はじめに
二 細川勝元と細川連歌圏
三 百韻の様相―『熊野千句』との比較を通して―
四 一巡出句の特徴―『熊野千句』との比較を通して―
ⅳ 心敬の詞―「尾上の宮」の転生
一 端緒
二 心敬の言説
三 尾上の宮関連和歌抄
四 宗祇圏の句と言説
五 『竹林抄』(文明八年〈1476〉)の古注
六 水無瀬離宮の造営の記録
七 結論とこれからの展望
【関連略年譜】
初出一覧
あとがき
索引
Ⅰ 心敬百韻訳注
事項・人名索引
語釈見出し索引
Ⅱ 連歌宗匠心敬論
事項・人名索引
和歌・連歌初句索引