前書きなど
はじめに
1974年以来足かけ43年の間に書いてきた原発ウオッチングの記録を一冊にまとめていただけることとなった。1974年に創刊されたばかりの『新地平』という雑誌の8・9月合併号に「PRからCRへ(1)」を書かせてもらったのが、最初である。そのときはまだ、原子力の問題にどっぷり浸かることになろうとは考えていなかった。
もともとの関心は、原子力そのものではなく、原子力の広報にあった。というのも当時、私は広告業界の隅っこの小さな制作プロダクションに勤務していて、広告という仕事のうさんくささが気になり始めていたからだ。初の著書も、原子力にあらずして、警察の広報戦略をテーマとする『現代日本の警察』(たいまつ社、1979年)だった。
原発と関わることになったきっかけは、1973年のこと。のちに“石油ショック”の年として記憶される年の4月から、電気事業連合会による全国レベルでの電力危機キャンペーン(毎月1回の大きな新聞広告、週刊誌の広告など)がスタートする。暗闇の中で止まったエレベーターのイラストに「たった今、電気がとまったら」といった脅し文句の出現は、当時広告業界の隅っこにいた私に、強烈なショックを与えた。私にとってこの年は、だから、“石油ショック”以上に“広告ショック”の年だった。
「環境問題などもあって、発電所の新増設がなかなか難しくなっています」と訴える広告は、環境問題などを理由に火力発電所の新増設に反対している建設予定地の住民を露骨に敵視する(原発より火発が、このころの反対運動の主な対象だった)。そして、広告が訴えかける相手は、当の建設予定地の住民ではなく、都市の住民である。「発電所の新増設さえできれば、停電の心配もないのに」と、広告の読者もまた建設予定地の住民の闘いを敵視することが、そこでは求められている。
この年の12月に、広告関係者らの集まりで配布したビラのなかで、私はこう書いた。「私たちは《広告》がはっきりと“敵”を見出しつつあること、この“敵”を叩く『意志』として働きはじめていることを見ることができる」。
「環境問題など」をほんとうに解決する方法がないからこそ、建設予定地の住民を“敵”として都市の住民に包囲させ、闘いをおしつぶす方法が開発された。それが広告の仕事とされたのである。そしてさらに、建設予定地住民のなかに分け入り、住民の闘いを分断し破壊する工作もまた、広告の仕事とされた。CR(コミュニティ・リレーションズ)という名で呼ばれるこの方法は、そもそも暴動の予防策としてアメリカの警察で開発され、警視庁によって日本に導入されたものだという。
こうした広告のあり方に対する疑問。それが、私をして原子力問題に首をつっこませた糸口だった。原子力キャンペーン(前述の電力危機キャンペーンは、74年10月から、はっきりと原発促進を打ちだすようになる)のスタートが、私の反原発運動へのかかわりのスタートともなったのだ。この年、私は、大阪で反広告会議を組織していた吉田智弥さんと出会い、その紹介で評論家の津村喬さんらを知る。これらの人々に多くのことを教えられて、私は、広告批判の立場から、反原発の運動に加わっていった。
1974年、津村さんらと反広告会議(東京)を結成。このころは反原発運動というより電力会社の広告活動の分析・暴露に終始していたが、そうこうするうち、本書24ページ以下に触れる「中央シンポジウム」問題がもちあがり、否応なく運動の現場に飛び込むようになる。前年の暮れに勤め先の会社が倒産して、著述業という名の失業者となっていたおかげで、活動の時間はたっぷりあった。
当初は広告批判からはじまった反原発運動とのかかわりも、とてもその立場だけにとどまってはいられない。原子力翼賛体制の作られ方を批判しようとすれば、原子力社会そのものの持つあらゆる問題を相手にしなくてはならなくなるのは当然だろう。とりわけ1978年創刊の『反原発新聞』(現・『はんげんぱつ新聞』)の編集者となってからは、「情報発信人」としての役割を強く意識して今日に至っている。
福島原発が過酷事故を起こしてなお強められようとする原子力キャンペーンに対して、私たちの側は、知識や情報のあり方をどのように考えて、これに抗していけばよいのか。さまざまな人々との共同作業として、これからも試行錯誤はつづくことになる。
2017年4月 西尾 漠