目次
はしがき
第1章 日本人は「脱原発」ができるのか
「原発体験」は繰り返されてはならない
日本人はかつて「戦争体験」を繰り返さないと誓った
繰り返さないための「思想」をつくらなかった日本人
日本国民の戦後の「感覚」
日本人には「思想」はつくれない?
思想を「権威の象徴」として用いる日本人
「脱原発」運動はかつての革新勢力の行動パターンを繰り返してはいないか
第2章 「脱原発」の論理だけでは足りない
「脱原発」は原発問題だけには収まらない
爆弾を落とされても原子力発電所は安全か
原発問題の背後には資本主義の害悪の問題が存在する
第3章 「社会主義神話」の威を借りた資本主義批判はもうできない
「科学的」社会主義?
社会主義経済はどうして崩壊してしまったのか
計画経済は可能か
第4章 他者の「人間の尊厳」に対する配慮に欠けた経済――資本主義の本質
社会主義経済は活力がなさすぎる経済だった
活力がありすぎる経済
民主主義にも同じ欠点があるかもしれない
第5章 「民衆の支配」と「民衆の解放」――民主主義の本質規定
「脱原発」を主張する人は多数派になれるか
多数派が決めてはならないことがあるのではないか
アメリカ型民主主義は「歴史の終わり」なのか
民主主義の内容はまだ確定されていない
民主主義の二つの柱――民衆の支配と民衆の解放
第6章 社会主義国型民主主義はどうして民衆の解放に失敗したのか
社会主義革命は「民衆の解放」と「民衆の支配」を求めた
「悪しき革命」と「悪しき民主主義」
社会主義国型民主主義は民衆から革命の判断権を奪ってしまった
階級では「民衆の解放」を表すことができない
第7章 民衆の解放は基本的人権で表される
市民革命期の「民衆の解放を表すものさし」には基本的人権もあった
人権は階級を超える
人権革命
人権革命は日々刻々が革命であり、政治革命は速度を与える
第8章 人権革命の歴史と冷戦の意味
「第一の革命」――自由権的基本権獲得を中心とした革命
「第二の革命」――生存権的基本権獲得を中心とした革命
冷戦は「第二の革命」を主軸にした対立であった
第9章 「脱原発」と近代民主主義の限界
「脱原発」は基本的人権の問題ではないのか
近代民主主義の認める基本的人権は狭すぎる
第10章 民主主義の発展と「新」社会契約説
民主主義は発展しなくてはならない
近代民主主義の発展は資本主義の害悪の克服にもつながる
社会契約説も発展しなくてはならない
「新」社会契約説の社会の捉え方
民衆一人ひとりの社会的苦しみからの解放
第11章 基本的人権の根拠と人間の尊厳
基本的人権の根拠
「公理」としての人間の尊厳
「人聞の尊厳」と「人間性」
人間の尊厳を侵される側の論理
これまでの社会契約説は自然権とされる基本的人権を「公理」としていた
第12章 平和権的基本権と「脱原発」の権利
基本的人権の定義と原則
平和を基本的人権で表すことが可能になった
「平和権」と「民衆の非武装権」
「脱原発」も基本的人権になりうる
人間の尊厳の人権化
第13章 社会と国家の役割
基本的人権と社会規範
人権保障の担い手としての社会
国家とその役割
「戦争ができる国家」はアンシャン・レジームである
基本的人権は国家の枠組みを突き抜く
第14章 社会的権限の再配分と社会契約
社会的権限の再配分
「人間を起点とした」人権体系
社会的権限の最適配分
社会契約はすべての社会で結ばれる
個別的・具体的な社会的苦しみの「人権化」
第15章 人権革命運動と「脱原発」運動
「脱原発」のための革命
人権革命運動
公民権運動
人権革命運動と社会的権限の「最適配分」
安易に直接民主制を主張してはならない
あとがき
前書きなど
はしがき
これまで私は、戦争と平和の問題を中心に新しい論理、あるいは新しい「思想」と呼ばれるべきものを追究してきました。そのためかなり多くの著作も書いてきたのですが、ある意味で、その平和のために考えてきた論理をそのまま「脱原発」の問題に当てはめたものが本書です。
どうして戦争と平和の問題を中心に思索してきた私が「脱原発」について書くのか。それは、原発事故や放射性廃棄物によって膨大な被災者が生まれるようなことは、もう繰り返されてはならないからです。本文でも述べたのですが、私は、今回の原発事故による被災者の状況は、まさに「原発事故体験」あるいは「原発体験」と呼ばれるのにふさわしいと思います。だからこそ、その「原発事故体験」あるいは「原発体験」はもう二度と繰り返されてはならないのであり、「脱原発」に向かわなくてはならないのですが、しかし私は、日本人は「脱原発」ができないのではないかと感じています。
そのように私が感じる理由は、一つには、日本人は第二次世界大戦直後にも「繰り返さない」と誓ったからです。そしてその誓いに関わらず、現在はとてもその誓い通りと言えるような状態にはないからです。第二次世界大戦直後、日本人は「原爆体験」や「戦争体験」を「繰り返さない」と誓いました。しかし、現在の日本人はアメリカの「核の傘」に入っていることに対して何の疑問も抱いてはいません。また、北朝鮮におけるテポドン事件や尖閣諸島をめぐる中国との領土の問題が起こった際に見られたように、現在、かなり多くの日本人がむき出しの好戦性をあらわにするまでになっています。
日本人は「脱原発」ができないのではないかと私が感じる二つめの理由は、現在おこなわれている「脱原発」運動の中に、かつての「革新勢力」の行動パターンを繰り返している部分がかなりあるように思われるからです。戦後、わが国を「繰り返さない」方向へと進めようとしたのは、主に革新勢力と呼ばれる人たちでした。しかし、彼らは常に硬直的、権威主義的態度をとり続けました。あたかも絶対的正義を背負っているかのようなその態度、常に民衆の支持を受けているかのようなその態度。批判はするが、その批判を自らには向けないその態度。しかし、わが国の革新勢力がそれほどの正義を背負い、それほどに民衆の支持を受けていたとすれば、彼らが少数派であったはずはありません。しかし、そうであったにも関わらず、彼らは常に多数派を装う態度をとり続けました。だからこそ、彼らは「原爆体験」や「戦争体験」の風化作用の進行に対して何ら手を打つことができず、結局はその革新勢力も崩壊してしまったのです。
私は、現在おこなわれている「脱原発」運動も、「原発事故体験」に対する風化作用の進行に直面せざるをえないと考えています。いや、もしかすると熱しやすく冷めやすい日本人にとっては、今回の原発事故に対する風化作用の進行は、もう始まっているのかもしれません。もちろん、現在の「脱原発」運動にはかなりの盛り上がりが見られます。しかし現在の「脱原発」運動の中にも、かつての革新勢力に見られた硬直的、権威主義的態度と同じものが私には感じられるのです。あたかも絶対的正義を背負っているかのような態度を取っているのではないか。常に民衆の支持を受けているかのような態度を取っているのではないか。批判はするが、その批判を自らには向けない態度を取っているのではないか。自らが少数派となる可能性を考慮せず、いつまでも多数派であり続けられると錯覚しているのではないか。――もしそうだとすれば、現在の「脱原発」運動も「原発事故体験」に対する風化作用の進行に抗することができない可能性があります。そして、繰り返さないという誓いが達成されないというパターンが、同じように繰り返される可能性があります。
日本人は「脱原発」ができないのではないかと私が感じるもう一つの理由は、二つめの理由とも関連して、現在の「脱原発」運動も、新しい論理や思想をつくる必要を感じていないように思われるからです。かつての革新勢力は、新しい論理や思想をつくらずに「原爆体験」や「戦争体験」を強いることがない社会が生まれると錯覚していました。そして「繰り返さない」と叫び続けただけなのですが、しかし、「繰り返さない」ためには、やはり新しい論理や新しい思想が必要だったのです。「原爆体験」を繰り返さないためには、核兵器廃絶に関する新しい論理が。「戦争体験」を繰り返さないためには、「戦争そのもの」や「戦争ができる国家」を否定する新しい思想が。しかし、彼らは、そのような新しい論理や思想をつくろうとはしませんでした。だからこそ、現在の世界は、相変わらず「核のある世界」「戦争が起こりうる世界」のままであり、一向に変わる気配を見せないのではないでしょうか。
現在の「脱原発」運動も、感情や感覚に訴えるだけで新しい論理、新しい思想をつくる必要を感じていないのではないか。自分の考える正義を唱え続けていればいつか社会が変わると錯覚しているのではないか。
本書のサブタイトルは「原発と資本主義と民主主義」です。サブタイトルをそのようにつけたのは、原発問題の背後には資本主義の害悪の問題が関係しており、そして資本主義の害悪を克服するには、その資本主義と同じ淵源を持つ近代民主主義(西欧型民主主義)の側を発展させる必要があると考えるからです。そして、そのことは、「脱原発」を意図する際にも資本主義の害悪や民主主義の発展に関する新しい論理、新しい思想が必要であることを意味します。詳しくは本論の中で述べることとして、「脱原発」をおこなうためには民主主義を「思想」として捉え直し、それを発展させていかなくてはならない、それが本書の言わんとするところなのです。