目次
まえがき
第I部 盲ろう者研究と本書の性格
第1章 「盲ろう者」という存在と先行研究の概況
1-1 「盲ろう」の世界と盲ろう者という存在
1-2 盲ろう者をめぐる先行研究の概況とその問題点
参考資料
第2章 本研究の目的と方法
2-1 目的
2-2 方法
2-3 資料作成における手続きと記述上の方針
第II部 福島智における視覚・聴覚の喪失と「指点字」を用いたコミュニケーション再構築の過程
II-1 出生から盲ろう者になるまで
第3章 失明に至るまで(0歳~9歳:1962年末~1972年夏)
3-1 右目の失明
3-2 隻眼で幼稚園に――わんぱくぶりを発揮
3-3 休みがちな小学校通学――しかし、相変わらずわんぱく
3-4 失明へ
参考資料
第4章 失明から失聴へ(9歳~17歳:1972年夏~1980年初め)
4-1 失明後の自宅療養、そして盲学校入学――「楽しみ」は自分でつくる
4-2 全盲生としての生活
4-3 右耳の失聴と「障害」についての思索
参考資料
II-2 失聴――盲ろう者として生きる
第5章 失聴へ(17歳~18歳:1980年6月~1981年1月)
5-1 失聴前夜
5-2 治療方針をめぐる特殊事情――西洋医学と東洋医学のはざまで
5-3 希望と絶望の間の振動
5-4 「男版ヘレン・ケラーになりそうや」――聴力低下への不安
5-5 運動療法に励む
参考資料
第6章 聴力低下と内面への沈潜(18歳:1981年1月~同3月)
6-1 下降――聴力の低下に呻吟する
6-2 諦観――絶望の中での逆説的平安
6-3 読書と思索を通して自分なりの「結論」へたどりつく
参考資料
第7章 「指点字」の考案(18歳:1981年3月)
7-1 指点字以外のコミュニケーション方法――カード、点字タイプライター、音声
7-2 考案――「指点字」はいつ、どのようにして考案されたのか
7-3 指点字はなぜ考案できたのか、そして考案直後の状況
参考資料
第8章 学校復帰――指点字を中心とした生活の始まり(18歳:1981年3月下旬~同4月)
8-1 不安を抱えての上京、友人らとの再会
8-2 智の「受け入れ」の準備
8-3 O病院への入院、担任との面談
参考資料
第9章 再び絶望の状態へ――集団の中での孤独な自己の発見(18歳:1981年4月~同7月)
9-1 智は自身が「壺の中」にいると感じる
9-2 バレーボールの見学で――「沈黙」の中で智は孤独の深淵を見る
9-3 クラスメート、教師、令子は当時の智をどう見ていたか
参考資料
第10章 再生――指点字通訳によるコミュニケーションの再構築(18歳:1981年7月~同9月)
10-1 喫茶店での出来事――「指点字通訳」の始まり
10-2 「飛躍」の背景
10-3 「飛躍」をもたらしたきっかけは何だったのか
10-4 「指点字通訳」はなぜ画期的なのか
10-5 「飛躍」はどうして生じたのか
参考資料
第III部 分析と考察
第11章 文脈的理解の喪失と再構築の過程
11-1 「コミュニケーションの希薄化」としての視覚・聴覚の喪失過程
11-2 盲ろう者の認識世界と「感覚遮断研究」
11-3 視覚・聴覚の喪失と「感覚的情報の文脈」の喪失
11-4 コミュニケーションを支える文脈的理解
11-5 視覚・聴覚を代替する複合的文脈――「感覚・言語的情報の文脈」
第12章 根元的な孤独とそれと同じくらい強い他者への憧れの共存
12-1 なぜ生きるのか――与えられているいのち
12-2 障害と苦悩の意味
12-3 他者の存在と他者によるケア・サポート
12-4 孤独と憧れのダイナミズム
参考資料
巻末資料
引用・参照文献
謝辞
あとがき
前書きなど
まえがき
世の中には、さまざまな癖や習慣の持ち主がいる。たとえば、身の回りのものをなかなか捨てられないという人も、その一例だろう。
戦中・戦後の物不足の時代に育った世代に、そうした人がわりと多いような気がする。私の母もそうだ。喜寿を迎えた母は今、神戸の団地スタイルの市営住宅で一人暮らしをしている。近年、この「ものを捨てない(捨てられない)」という傾向がますます顕著になってきているように思える。
(…略…)
もう一つ「人間の癖」について言えば、「筆記癖」の持ち主というのもある。
「メモ魔」ともいうのだろうか。やたらとなんでも、メモを取りたがる人が時折いる。新聞記者のように、職業上の必要があってのメモ取りではない。講義中の学生のノート・テイク、あるいは職場での会議中の記録作りなどとも違う。とにかく、めったやたらに、のべつまくなしにメモを取りたがるというタイプの人間のことだ。
これは「ものが捨てられない」というタイプの人よりも、比較的、あるいはかなり珍しいように思える。ところが、私の母は、この癖も持ち合わせているのである。
(…略…)
さて、ここまで読んでこられた方は、「いったいこの著者はなんのために、本のまえがきにこのようなくだらないことをだらだらと書いているのだろうか」と、疑問と不信を抱いておられることだろう。理由を一言でいえば、本書が誕生した背景事情の一つを説明している、ということになる。
本書の目的や性格、あるいは本書の下地となった私の博士論文作成上の研究方法などについては、第I部の第1章と第2章に記している。しかし、著者として私には、一つの不安がある。読者の中には、次のような疑問を抱く人がおられるのではないかということだ。すなわち、「どうして、30年も40年も、中にはほとんど50年近い昔のことまで、こんなに詳しく書けるのか? ちょっとこれはおかしいのではないか?」という疑問だ。
本書の内容の中心は、私が出生した1962年から始まって、9歳で失明し、18歳で聴力も失い「盲ろう者」となる1981年頃までの間の、私自身の人生と体験についての記述である。しかし、一般的な意味での自伝ではない。また、第三者による伝記とも異なる。詳しくは第2章にゆずるが、さまざまな手法を重ね合わせ、クロスさせた、かなり特殊な方法で本書は作成された。
こうしたさまざまな取り組みの一つとして重要なものは、記憶を裏づけるとともに、また新たな(忘れていた)記憶を蘇らせる役割をも果たす物的証拠である。具体的には、日記や手紙などの書記資料や録音テープなどの資料が、きわめて重要な意味を持つということだ。
そう、つまり、私の母は、「メモ魔」としてなんでもかんでも記録する癖があり、同時に、「ものを捨てることができない人間」であったために、図らずも、私の過去の体験をめぐるさまざまな記録や資料がたまたま保存されていた、ということなのである。
本書の下地となる博士論文執筆に向けての準備において、なにがもっともたいへんな作業だったかといえば、母が保存し、実家などに「埋蔵」されていた大量の資料の発掘だった。続いて、それらの資料の整理と分類。そして、その読みこみである。
これらの資料類というのは、小はメモ1枚への走り書きから、大は分厚いノートにぎっしり書きこまれた母の日記まで、さまざまである。整理・分類の方針として、内容が異なるものであれば、その分量や文字数にかかわらず、すべて別資料と位置づけ、通し番号を付けてリストを作って整理した。その番号は、「1番」から「1330番」にまで達した(念のためにいえば、ここでいう「1330」というのは、本書の文献リストに掲げている、いわゆる普通の「引用・参照文献」などとは別の、雑多な資料の数ということである)。
また、この他、耳が聞こえる頃、私が音楽や落語やドラマ、あるいは家庭内での会話などまで、たびたび録音していたカセットテープが873本保存されていた。家庭内での会話の録音は、もちろん記録として役立ったのだが、その他のテープも参考になった。というのは、落語や音楽、ドラマなどを録音するときにも、かなりの数のテープの冒頭や末尾に、私は録音した年月日とともに、その時々の自分についての短い近況報告のようなものを吹きこむ癖があったからだ(こう考えると、血筋はあらそえず、私も一種の「音のメモ魔」だったのかもしれない)。
このように、母の二つの癖、すなわち、「ものが捨てられない」ということと、「なんでもメモしてしまう」という行動は、それ自体さまざまな問題をはらむものではあるけれど、少なくとも本書の刊行にとっては有意義であった。
ところで、すでに述べたように、私は視覚と聴覚に障害を併せ持つ「盲ろう者」である。盲ろう者で歴史上もっとも著名な人は、おそらく米国のヘレン・ケラーだろう。ヘレン・ケラーは「20世紀の奇跡」といわれ、「聖女」ともいわれる。
はなはだ気恥ずかしいことなのだが、私は時折、「日本のヘレン・ケラー」などと呼ばれたりすることがある。ヘレンも私も同じ盲ろう者として、たしかにある程度共通の、あるいは、類似の経験をしている面はあるだろう。しかし、ヘレンと私では、人生経験における重要な部分が質的に大きく異なっている。
では、ヘレンと私ではなにが異なっているのだろうか。ヘレン・ケラーが「奇跡の聖女」であるのに対して、私が地酒とワインが好きな、腹のつきでたたんなる中年男だから、というわけではない(そういう面も、いくらかはあるが)。
一言でいえば、ヘレン・ケラーの人生は、「覚醒」と「成長」の歩みであるのに対して、私は「喪失」と「再生」の人生を経験した、という点である。
私が経験した「喪失」の本質がなにであり、私における「再生」が具体的にどのようなものであったか。本書をとおして読者にも、共有していただければ幸いである。