目次
はじめに
第一章 司馬作品の魅力はどこにあるのか
第二章 司馬思想の形成
一 仏教
二 草原の民への関心
三 朝鮮への思い
四 中国
むすび
第三章 「この国のかたち」を求めて
一 どのような戦争体験であったか
二 鎌倉武士のリアリズム
三 室町・戦国期の合理主義
四 江戸時代の合理主義
第四章 司馬史観とはなにか
第五章 司馬遼太郎と網野善彦
一 人類史の今
二 日本国の称号について
三 列島諸地域の差異
四 海への関心
五 資本主義経済の起源
六 マルクス主義批判
第六章 『坂の上の雲』について
一 なぜ書いたのか
二 日清・日露戦争は侵略戦争か
三 侵略戦争否定の論理
四 司馬遼太郎が書かなかったこと
五 明治国家への違和感と「明治の悲しみ」について
六 発せられなかった問い
七 夜郎自大の民族へ
八 明治憲法と統帥権
むすび
第七章 「あるべき国のかたち」を求めて
一 戦後憲法体制の維持
二 抑制こそ文明
三 ナショナリズムを超えて
おわりに
註・参考文献
前書きなど
はじめに
没後一〇年を前にした二〇〇五年から再び司馬ブームが演出されている。『朝日新聞』(二〇〇五年二月十二日)は、「来年の没後一〇年を前に司馬ブームの大きなうねりが始まっている。四月上旬から司馬遼太郎短編全集(全一二巻)が文藝春秋から出版されるし、朝日新聞社からは一月十八日から朝日ビジュアルシリーズ『司馬遼太郎 街道をゆく』が刊行された。来年正月からNHKテレビで『功名が辻』(文藝春秋・文庫四巻、三六〇万部)が放送される。『坂の上の雲』もNHKスペシャルとして予定されている」と報じていた。
二〇〇六年に入って早々文藝春秋が「没後一〇年特別企画」として、『司馬遼太郎ふたたび 日本人を考える旅へ』(『文藝春秋特別版』二月臨時増刊号)を出したのをかわきりにさまざまな関連本が出され、二〇〇七年一月には、NHKが『坂の上の雲』の制作を開始すること、それを三年にわたって放映すると発表した。
前出の『朝日新聞』は、没後九年になるが、司馬作品の人気は衰えず「今も読み継がれ 六〇〇冊一億八〇〇〇万部」が出版され、没後のブームが今も継続しているかのように書いている。しかし、こうした現象が「司馬ブーム」の継続と言えるかどうかは、率直にいって疑問である。
例えば、前掲紙は司馬の作品中、もっとも売れている『竜馬がゆく』について、単行本を含めた発行部数は二一五〇万部である、と書いている。同紙は、一九九八年二月十九日の「第二回 菜の花忌シンポジウム」(司馬遼太郎の命日、二月十二日を記念して開催されているシンポジウム)に関する記事の中で、『竜馬がゆく』の発行部数を一八〇〇万部超としている。それから数えると六年間に三五〇万部、年平均五八万部超、増加したことになる。ところで、『竜馬がゆく』の文庫本は全八巻(単行本は五巻)だから、一巻あたりでは、文庫本で約七万二五〇〇部である。「没後九年 今も読み継がれ」というタイトルにいつわりはないが、七万二五〇〇部という数字は「ブーム」と呼ぶにふさわしいものなのか。
司馬信奉(オマージュ)の第一人者で作家の関川夏央は、『坂の上の雲』について、「第一巻は六九年に、これも文藝春秋から刊行された。初版は七万八千部だから相当な数字だが、爆発的とはいえない」と書いている。七万二五〇〇部という数字はブームと呼べる数字ではないのである。
また、ブームが継続しているというなら、当然のことながら若者のなかに新たな読者が広がっているはずである。それを検討できる唯一の統計資料は、文学好きのビジネスマンの組織である「現代作家研究会」が、会員とその周辺の人々に行ったアンケート調査(対象人員一六〇名)だけである。アンケートは一九九三年以前のものであるが、「好きな作家」の第一位に司馬遼太郎をあげた人=八四人中、四〇歳以上が六五人、七七・三%である(女性は一人)。
会員の中で司馬作品の九割以上読んでいると紹介されている近藤武士(六一歳)は、元航空会社社員であり「歴史に関する学識の深さは素人離れしていて驚異的」と評されている人である。また、その経歴が紹介されている一〇名の職業は、社長二名、常務二名、情報センター長、研究所所長、フリーライター、各一名などであり、読者の中心は「知的中高年」である。もともと、若者向きの作家ではなかった、と推測される。
また、若者に接する機会が多いと思われる、東京大学非常勤講師で国際日本文化研究センター客員教授の小谷野敦は『すばらしき愚民社会』(二〇〇四年、新潮社)で、「二十年前には司馬の小説は“大衆文化”の一環だったが、今では“大衆”は司馬でさえ読まない、といえば言い過ぎだが、司馬や陳舜臣、塩野七生のような現役の“歴史作家”を好んで読んでいるのは、知的な中高年であって、若者の“歴史離れ”は著しい」と書いているが、「知的中高年」が司馬の読者という傾向は今も変わっていないのである。
つけたせば、朝日新聞社の『ワイド版 街道をゆく』=大きな活字のワイド版というのは老眼用であろうし、前出の『司馬遼太郎ふたたび』もワイド版である。演出されているブームは、かつての司馬読者を呼び戻そうという試みのように思われる。
そうした疑問はあるが、再び「司馬ブーム」が演出されていることは間違いない。その演出者たちの司馬理解は正確なものなのであろうか。とりわけ、その全集=六七巻の九割以上をしめている日本史にかかわる作品についての、理解はどうなのであろうか。
最初の「司馬ブーム」について、評論家の松本健一は「国民作家」司馬遼太郎に対する「無内容なオマージュ」があふれているとして「それは司馬遼太郎の死後にはじまったことではない。生前からはじまっていた。オマージュは批評つまり文学者に対する文学的評価ではなくて、別の基準、たとえば政治的意図またはその人気に対する便乗、といった意図にもとづく作文」と書いている。
「政治的意図」でオマージュがもっとも多く繰り返されてきた作品は『坂の上の雲』であろう。最近では、前述のNHKが『坂の上の雲』を二十一世紀スペシャルとして放映するという企画に呼応したと思われる『文藝春秋』(二〇〇三年七月号)の「よみがえれ“坂の上の雲”」の座談会「偉大なる明治の“プロジェクトX”」の参加者の発言などは、その典型である。
「“国難”に際してすべての日本人が立ち上がった」というサブタイトルでわかるとおり、ナショナリストを主に集めたこの座談会は、国家意識の昂揚をねらったものであり、参加者はこもごも国家について語っている。
櫻井孝頴(第一生命保険相互会社会長)は「“坂の上の雲”は“国家”を描きました。そして、現在も、グローバル化のなかで国家のあり方がふたたび強く意識されるようになっています。毎年夏、経団連は東富士でセミナーをおこなっていますが、昨年のテーマはまさに“国家”ですよ。(中略)経済もグローバル化すればするほど、実は国家が浮かび上がってくるのです。日本におけるグローバル化と国家というテーマの原型は、鎖国をやめ、世界に窓をあけた明治国家に求めることができる。そこでふたたび“坂の上の雲”が注目されているのだと思います」と述べ、尾崎護(前国民生活金融公庫総裁)は「日清、日露の戦役において、兵たちがあれだけ忠実に、命がけで戦ったのは、忠君思想をとおして、自分たちの行動が正しいと信じることができたからです。ところが、明治人たちが苦労してつくりあげた国民国家の価値はいまや暴落し、一方ではグローバリゼーションといった世界国家的な意識が広まり、また一方では地方分権がもてはやされたりという状況です。これが日本にとっていい状況なのでしょうか」と語っている。
作家の作品からなにを受け取るかは、読み手の自由であるが、これらの発言は司馬の思想とは無縁なものである。司馬の国家論については後述するが、彼は国家について「私は理念の上では、国家は軽ければ軽いほどいい、と思っている」と書き、「ついには、その国の民度を測る規準として、極端に自文化についての優越感情をもっている民族こそ、卑陋でやすっぽいといわれるようになるにちがいない(あと何世紀もかかるだろうが)」と、ナショナリズム的感情に対して否定的である。櫻井や尾崎的読み方は、司馬の意図を読みとったものとは言い難い。
「人気に便乗」したものも枚挙にいとまがないくらいあるが、意図そのものがオマージュにあるのだから、滑稽きわまりないものが多い。関川夏央が、朝日新聞社のビジュアルシリーズ、『司馬遼太郎 街道をゆく』刊行を記念して行われた「創刊記念シンポジウム」の基調講演などはその典型である。
彼は「皆さんは“アイデンティティー”ということばといつ出会われたでしょうか。いまでも日本語として完全にこなれきっていません。“自己同一性”という翻訳が流布していますが、それでもわかりにくいですね。司馬遼太郎は、これを“お里”と訳したのです。お里が知れるの「お里」です。里心の「里」です。日本人の「アイデンティティー」=「お里」が揺れる時代(一九七〇年代末から。「街道をゆく」は一九七一年から『週刊朝日』に連載された。筆者註)、その源をさぐり、記述したいという彼の情熱が『街道をゆく』に結晶したのだと私は思います」と述べ、『街道をゆく1』に言及して次のように述べている。
司馬遼太郎は安土城跡に登ってみました。昔、城跡から見た湖水の美しさの記憶が彼のなかに深くとどまっていたので再訪したのでした。ところが、苦労して登って見下ろしても、まるで水は見えない。みんな埋め立てられてしまっていたのです。あの水が防壁ともなり流通の要路ともなるような風景は消えていた。そういうことを日本人は、この高度成長後半期にはかなり平気でやったわけです。いまをのがせば、日本は全く姿を変えてしまうだろう。かつては祭りの場であったり、あるいは修羅の巷であった歴史の証言者たる四つ辻や街道はやがて跡かたもなく霧消してしまう。そういう危機感が彼のなかに宿り、燃え上がって、この旅は始まったのだと思います。
関川のこの解釈は正しいのだろうか。関川が使用した『街道をゆく1』で司馬が「この連載は、道を歩きながらひょっとして〈日本人の祖形のようなものを嗅げるならば〉というかぼそい期待をもちながら歩いている」(〈括弧〉内傍点、引用者)と書いている。「日本人の祖形」と「お里」は等号で結べない、と私は思う。
また、関川が引用したのは『街道をゆく1』の「湖西のみち」であるが、司馬はそこを選んだ意図について「“朝鮮人などばかばかしい”という、明治後できあがった日本人のわるい癖に水を掛けてみたくて、私はこの紀行の手はじめに日本列島の中央部にあたる近江をえらび、いま湖西みちを北へすすんでいるのである」と書いており、「風景」=「お里」に対する関心ではない。
関川の「昔、城跡から見た湖水の美しさの記憶が彼のなかに深くとどまっていたので再訪したのでした」などと言うのは、見当はずれもいいところなのである。事実、2巻の『韓のくに紀行』で、司馬は日本を飛び出し、以後も日本だけでなく、『モンゴル紀行』『中国・江南のみち』『中国・蜀と雲南のみち』『南蛮のみち1、2』『中国 ●のみち』『耽羅紀行』『愛蘭土(アイルランド)紀行1、2』『オランダ紀行』『ニューヨーク散歩』と外国を歩いていく(『南蛮のみち』は、スペイン・ポルトガル、『耽羅紀行』は済州島)。『街道をゆく』シリーズ中で白眉と思える『愛蘭土紀行』を熟読しても、アイルランドに日本人のアイデンティティーを求めた、と思える箇所には出会わない。それは、他の諸外国についても同じである。別の意図があったと考えるほうが妥当である。(●=門構えに虫)
ついでに言っておくと、アイデンティティーを「お里」と訳して使ったのは、『愛蘭土紀行2 街道をゆく31』であって、『街道をゆく』の最初の号からではない。また、「自己証明」に「アイデンティティー」とルビをふって使ってもいて、すべて「お里」で通しているわけではない。
本書は、前述したような「政治的意図」「人気への便乗」ではなく、司馬自身の日本史への関心の核心、すなわち彼が「この国のかたち」と呼んだ日本史の骨格は何なのか、それを描いた歴史像からくみとるべきものが何か、を考えようとするものである。
そして、彼のさまざまな言説の中で、現在において吸収できるものがあるかどうか、を検証しようとするものである。