目次
まえがき(遠藤織枝)
第1部 シンポジウム「ことばとジェンダーのこれからを考える——寿岳章子さんの志をうけついで——」から
第1章 志を貫いた寿岳さん——研究と実践の見事な一致とともに(遠藤織枝)
1 女学生の寿岳さん
2 女性差別のある教育制度を憤る
3 抄物研究
4 『日本語と女』
5 「憲法を守る婦人の会議」と「答責会議」
6 現代日本語研究会のメンバーとして
第2章 歌に見る女性像・男性像(金秀容)
はじめに
1 寿岳章子の調査
2 寿岳の調査結果と現代の日本の大衆歌謡との比較
3 現代の日本の大衆歌謡と韓国の大衆歌謡との比較
おわりに
第3章 寿岳氏の先駆性(柴本‐スミス・ジャネット)
1 モダンな寿岳氏
2 ポストモダンな寿岳氏
第4章 少女から見た言葉の教育——戦前・戦中の労働新聞と少女雑誌から(鷲留美)
1 女学生の寿岳さんとその時代
2 国語政策と「女らしい言葉遣い」
3 少女と階層
4 女工の意見
5 女学生の意見
おわりに
第5章 思いを熱く共有しあった場としてのシンポジウム——「ことばとジェンダー」研究の現在(熊谷滋子)
1 シンポジウムのまとめ
2 「ことばとジェンダー」研究の現在
第2部 「ジェンダー」への理解を深め、広めるために
第1章 ジェンダーの教育実践例(小矢野哲夫)
はじめに
1 男女共同参画の意識
2 授業での取り組み
3 事例の紹介
4 授業効果と期待
第2章 高校における「ジェンダー」——その「傾向と対策」を九九%の側から考える(小林美恵子)
1 学校とジェンダー——都立高校教員としての体験
2 男女混合名簿の広がり
3 バックラッシュが始まった
4 九九%のために何ができるのか
5 性教育と言葉
6 国語教材をジェンダー的視点で見ると
7 『こころ』の授業
8 明治社会の女性と漱石
第3章 日本語教師とジェンダーに関する一考察——「そのネクタイ、すてきですね」をどう扱うか(萩原秀樹)
はじめに
1 国内日本語教育の現場から
2 ジェンダーから眺めた日本語テキスト
3 指導者と学習者
4 日本語教育への示唆
おわりに
第4章 スリランカのジェンダー学と女性運動(イミヤ・カマラ・リヤナゲ)
1 ペラデニヤ大学
2 女性で初の学部長
3 初めてのジェンダー学
4 ジェンダーとの出会い
5 政治におけるスリランカの女性
6 Independent Women's Collective の結成
第3部 ことばとしての「ジェンダー・フリー」——言語的意味と行政による禁止の動き
第1章 「ジェンダー・フリー」の言語領域からの分析——gender-freeの誤用と「ジェンダー・フリー」の混乱(佐々木恵理)
はじめに
1 「ジェンダー」の導入
2 「ジェンダー」はどれくらい認識されているか
3 「ジェンダー・フリー」を読み解くために
4 「ジェンダー・フリー」の分布図
5 日本語人のことばと言語改革への態度
6 ことばを発信するということ
7 バッシングと闘うために
第2章 東京都議会・地方自治体における「ジェンダー・フリー」禁止の経緯と現状(戸張きみよ・藤田恵)
1 東京都議会におけるジェンダー・フリー論争
2 地方自治体の「ジェンダー・フリー」
第3章 地方行政でのジェンダーの取り組(田中優子)
はじめに
1 世田谷区における女性政策の沿革
2 世田谷区におけるジェンダー関連の動き(議会質問より抜粋)
3 男女共同参画に関する世田谷区独自の取り組み
おわりに
索引
前書きなど
まえがき
ことばを教えるという仕事に携わって以来、この仕事から、実に多くの問題を与えられてきた。教えるためには、自分が知らなくてはいけない、知るためには研究しなければいけない。しかも、ことば自身を知るだけではなく、社会の中でのことばのありよう、人間にとってのことばのありかたなど、知るべきことと知りたいことは、はてもなく広がっていく。そうした問題意識は独自性が求められ、創造性を標榜する一方で、同じように思惟を重ね悩みを解き放ち新しい境地を切り開いてきた先学の研究成果や示唆に学ぶべきところが大きいのも明らかな事実である。先学から後輩へと伝え伝えられていく、知の循環の中で葛藤を重ねながらなんらかの回答を求めることは研究者としての大きな苦しみであり、喜びでもある。
わたしたちは、二〇〇五年夏に寿岳章子さんという、独自の視点で「日本語と女」を論じ、社会との結びつきを最後までやめなかった大きな先輩を失った。失ってみてますますその存在の大きさを実感している。寿岳さんの研究方法や、考え方、対象への迫り方、社会との結びつき方を学びたい、そしてそれをことばに関心を持つより多くの人々に知ってもらいたい、寿岳さんのことをみんなに知ってもらいたい、そう私たちは願った。それが、晩年の寿岳さんをメンバーとして迎えた現代日本語研究会の務めであろうとも考えた。その結果、寿岳さんの一周忌を前に「ことばとジェンダーのこれからを考える—寿岳章子さんの志をうけついで」と題するシンポジウムを開いた。二〇〇六年七月八日である。
その会場に集まった方からの熱い討論を聞きながら、このシンポジウムの実際を当日参加できなかった人にも知って欲しい、また、討論の中から出てきた、具体的な問題意識も、その場の参会者だけでなく多くの人と共有したい、そういう願いから、この本の出版を企画した。
討論の場で最も大きな関心を集めたのは、東京都や内閣府の「ジェンダー・フリー」という用語の使用を禁止する通達であった。だれもが、危機感を抱いているように思われた。「ジェンダー」という用語自体も使いにくくなっている、という区議会議員からの報告もあった。「ジェンダー」という外来語を後生大事に信仰するわけでは決してない。従来ある日本語の中に、事態を適切に表現する語があればそれでもかまわない。しかし、現在の女と男、そのどちらとも言えないさまざまな人間の、人間としての生きやすさを実現できる思想や方策を語るのに現在は「ジェンダー」が最もふさわしい。また、外国での人文科学社会科学関係の学会発表テーマをみても、ジェンダーが大きな観点を占めている現在の状況で、ほかに適切な言葉は目下は考えられない。
こうした状況下で、「ジェンダー」「ジェンダー・フリー」の用語の禁止の通達は、権力による言論弾圧そのもので、決して許すことのできない暴挙である。この暴挙に立ち向かい、それをはねのけるにはどうしたらいいかが、討論の核心であった。わたしたちはその討論をその場限りにしないために、より深く掘り下げて考え、その結果を社会に向けて発信すること、それこそが寿岳さんの志を継ぐことではないかと考えてこの本を企画した。
この本は3部構成になっている。
1部は二〇〇六年のシンポジウムの発表とその具体的討論の紹介である。
2部はジェンダーという考え方を具体的にどう取り上げ、どう広め、深めていくかを考えるものである。
3部は言語としての「ジェンダー・フリー」がどのような経緯で導入され、どのような問題を生んだか、行政が禁止するにいたる議論はどのようになされたかを検証するものである。
以下に各論文の概要を述べる。
第1部 シンポジウム「ことばとジェンダーのこれからを考える—寿岳章子さんの志をうけついで—」から
1—1「志を貫いた寿岳さん—研究と実践の見事な一致とともに—」は、日本語の中の「女」の位置づけや、それが基となって日本の女性を規定してきた枠組みを、最初に問題意識化し、多くの人に問題提起をするにいたった、寿岳さんの少女期から晩年に至る生き方とそのときどきの彼女自身の思惟をつなぎ合わせて、寿岳章子像を描き上げたものである。
1—2「歌に見る女性像・男性像」は、寿岳さんが三〇年前に歌謡曲を分析した方法を踏襲しながら、最近の歌では、女と男の描き方が当時の歌と変わってきているのかいないのか、また、韓国の流行歌との共通点の有無について明らかにしている。
1—3「寿岳さんの先駆性」は、アメリカ・イギリスの言語学者の女性の言語に対する研究態度や方法と、寿岳さんの研究方法や結果とを重ね合わせて検討しながら、寿岳さんは欧米の研究者の研究の先を行っていたと分析している。
1—4「少女から見た言葉の教育—戦前・戦中の労働新聞と少女雑誌から」は、寿岳さんが育った同じ時期の少女の言葉遣いに対する社会的規範と、それに縛られないで生きようとする、繊維工場で働く少女の言説を紹介している。
1—5「思いを熱く共有しあった場としてのシンポジウム—『ことばとジェンダー』研究の現代」は、シンポジウムでやりとりした参会者との討論をまとめ、また、日本国内での「ことばとジェンダー」研究の現状と課題を述べている。
第2部「ジェンダー」への理解を深め広めるために
2—1「ジェンダーの教育実践例」は、大学での日本語学や社会言語学の科目の中で、どのようにして、ジェンダーを取り入れ、どのように学生や院生に考えさせていくかの実践報告である。
2—2「高校における『ジェンダー』—その『傾向と対策』を九九%の側から考える」は、高校教師としての日常生活がジェンダーに如何に束縛されているかの体験報告と、高校の授業で、国語教材をジェンダーの視点で読み直して指導・授業する試みの報告である。
2—3「日本語教師とジェンダーに関する一考察」は、日本語教育の現場で、ジェンダーの視点から教材をみた問題点と、それに対する日本語教師の意識の乖離を取り上げている。いわゆる「男ことば」や「女ことば」を教室でどう扱うか、また、日本語に隠されたジェンダーへの認識と指導力が問われるとしている。
2—4「スリランカのジェンダー学と女性運動」は、スリランカのペラデニヤ大学で政治学部長をしている筆者の、同大学でのジェンダー学ことはじめの報告である。スリランカというアジアの一国の特殊な事情というだけでなく、ジェンダー学を推進するために必要とされる普遍的事例を示していて貴重な報告である。
第3部 ことばとしての「ジェンダー・フリー」—言語的意味と行政による禁止の動き
3—1「『ジェンダー・フリー』の言語領域からの分析…… gender-free の誤用と『ジェンダー・フリー』の混乱」は、gender-free という英語が、英語の意味ではなく、ねじれて翻訳されて日本に導入された結果、わかりにくくなり、従来の男女平等政策に批判的なグループからのバッシングの対象とされたと論じ、ここで、改めてこの語の使用をやめてしきりなおしをすべきだと主張している。
3—2「東京都議会・地方自治体における『ジェンダー・フリー』禁止の経緯と現状」は、東京都議会の議論が、「ジェンダー・フリー」とは男らしさ女らしさを否定するものという一部議員の故意に事実を歪曲した主張に引きずられて、低俗な議論を繰り返しながら、男性優位論者石原都知事の思うつぼにはまっていく様子を浮かび上がらせている。
3—3「地方行政でのジェンダーの取り組み」は、世田谷区の区議会議員である筆者が世田谷区でのジェンダー・フリーを如何に浸透させ広めようとしているかを、具体的な議会での質疑を紹介しながら述べている。
本書では、「ジェンダー・フリー」の用語禁止に危機感を持つものの思いをさまざまな角度から論じている。3部では、「ジェンダー・フリー」の語を使うべきではないという第1章と、使い続けるべきであるという第2章・第3章とをあわせて載せている。前者は言語の使用や導入に際してより厳密であるべきという主張であり、後者は運動を推進し、それを禁止しようとする権力に妥協しないために「ジェンダー・フリー」を使い続けるべきであるという考えに立っている。どちらもジェンダー規範からの解放を唱える主張は共通していると考えて両者を取り上げている。
それにしても、自治体の議員と行政側の議会でのやり取りをつぶさに見ていくと、そこで闘わされている議論がいかに低劣なものかを改めて知らされる、そのような議論の結果として、言語使用の制約を受けるなどということは全く許せないと、憤りさえ覚えるほどである。このような経緯を経て「ジェンダー」「ジェンダー・フリー」の語を行政が使わないように通達したという事実を知って、いま、この語が誤訳に基づいているから使わないようにしようと、言語研究の側から主張することは、権力側の術中に自ら飛び込むことになる危険もはらんでいることを、考える必要があろう。