目次
勝新太郎、映画を語る
森繁久彌、役者を語る
立川談志、落語を語る
立川談志、映画を語る
太地喜和子、舞台を語る
内藤陳、ヴォードヴィルを語る
岩城宏之、手術と指揮を語る
麻雀放浪記〈一九八四〉 快盗ルビイ〈一九八八〉 怖がる人々〈一九九四〉 真夜中まで〈一九九九〉 イラストレーション塾 質問箱
前書きなど
あとがき
『聞いたり聞かれたり』という題名は、「インタビューしたり・されたり」という意味でもあります。こんな本を作ったからといって、インタビューのプロではありません。縁のある雑誌の企画でそういう立場になり、楽しんで何度かそれをやった、というだけのことです。
第一部である「聞いたり」のコーナーはかなり面白いと思いますが、それはぼくの「聞く力」によるものではなく、お相手の「答える力」の強さのおかげです。
答えてくださったみなさんのお名前に目を通すと、みなさん全部が今は故人でした。そのかたがたを選んで(故人という理由で)収めたわけではありません。申し訳ないけれど、偶然そうなってしまったのです。
このコーナーに収めたかったのは、ほかに坂本九ちゃん(ちゃん付けで呼ぶのは親しかったからです)と向田邦子さん。九ちゃんは「上を向いて歩こう」以前のロカビリー歌手だった時代、駐留軍基地で歌った話、日劇の「ウェスタン・カーニバル」大ヒットの狂乱のエピソードなど、今となっては貴重な資料となる話をしてくれたのだけれど、インタビューの現場が満席の喫茶店だったため、録音したテープは、客の話し声、ウェイターの運ぶ食器のガチャガチャという音で、二人の声がかき消されて、文字に起こすことができなかったのです。
向田さんとの対談は「キネマ旬報」誌のために行われたもので、誌上に活字となって残っているのですが、これは向田さんが著者名義になっている『向田邦子全対談集』と徳間文庫『向田邦子 映画の手帖』に収められているため、こちらは遠慮しました。向田さんは映画のこと、テレビドラマの脚本のことなど、いろいろ面白く語ってくださったのですが、その対談からそれほど日を経ずして飛行機事故に遭われたのでした。
先ほど書いた、「縁のある雑誌」というのは「話の特集」と「キネマ旬報」です。森繁久彌さんから岩城宏之さんまでが「話の特集」。二度目の談志さん(映画を語る)は「キネマ旬報」。お読みになって気にされたかもしれませんが、落語界の巨匠であった談志師匠に、ぼくはかなり乱暴な口のきき方をしています(お互いにそうだけど)。それは師匠が二つ目時代、柳家小ゑんの頃に知り合って、それ以来の親しい友人だったからです。と言っても誘い合って飲みに行くということはなく、たいていあちらから電話が掛かってきて、とりとめもなくしゃべるだけ。話題はいつも映画でした。「話の特集」のインタビュアーは編集長の矢崎泰久さん(編集長だから不思議はないけれど。変わったところでは時どき指揮者の)岩城宏之さん、そしてしばしばぼくでした。ぼくはインタビューされた人の似顔絵を表紙に描いていました。インタビュアーがぼくでなくても。「話の特集」におけるぼくのインタビューは「インタビューまたは対談」という題名の単行本四冊になり、答えてくれた人は四十八人でした。その中には桑田佳祐さん、桃井かおりさん、日野皓正さん、大竹しのぶさん、村上春樹さん、明石家さんまさん、市川崑監督、俵万智さん、横尾忠則君、堤清二さん、椎名誠さん、などなど錚々たるかたがたが含まれています。
「キネマ旬報」のインタビューは不定期に一年半ほど連載しました。「キネマ旬報」ですから、話題は当然映画です。「映画に乾杯」という題名で、二冊の単行本になりました。対談の回数は二十回、ゲストの数は二十二人です。勘定が合わないみたいですが、二人コンビのゲストが二組あったからです。タップダンスの中野ブラザースと漫画の藤子不二雄さん。「キネ旬」のゲストに談志師匠、向田邦子さんが含まれているのは前述の通り。ほかは小松左京さん、黒柳徹子さん、赤川次郎さん、長部日出雄さん、ペギー葉山さん、吉行淳之介さん、などなど、これまた錚々たるかたがたでした。
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インタビューしそこなって、ぼくが残念に思っているかたが一人います。渥美清さんです。親しくしてくださっていたので、個人的な日常会話はよくあったのだけれど、あらたまったインタビューはしていませんでした。
何年のことだったか正確には憶えていませんが、ある出版社の女性編集者が装丁のことなどで時どきぼくの仕事場に顔を出していました。ある時彼女が「渥美清さんの伝記を作りたくて、インタビューを申し込んでいるんですけど、なかなかOKがでません」と言うので、ぼくは「いい企画だから実現できるといいね」なんて言っていました。次に彼女が来た時「あの企画どうなった?」って聞くと「相変わらず、うんと言ってくれません」。そんなやりとりが何度かあった後、彼女が息せき切ってやってきた日がありました。「和田さん、今すぐ大船に行ってください」「何のこと? いきなり」「渥美さんは今、大船で撮影をしてます。わたし、そこへ行ったんです。渥美さんをつかまえて、インタビュー、どうしてもダメですかって聞きました。渥美さん、黙ってます。わたしじゃダメなんですか。黙ってます。誰ならいいんですかって、いろんな人の名前を出しました。それでも黙ってます。わたし、和田誠さんならどうですかって言ったんです。そしたら渥美さん、〝まことちゃんが来るんじゃしょうがないなあ〟っておっしゃったんですよ。ですから和田さん、今すぐ行ってください、大船へ。寅さんの撮影中です。間に合います。早く早く!」
ぼくはずいぶん心が動きましたが、ウィークデイで仕事中でしたから、すぐ行けったって行けません。近所ならともかく大船までは。その話はこれでおしまいですが、あの日のことを思い出すたびに、無理しても大船へ行けばよかったなあと思うのです。
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第二部の「聞かれたり」は、大半がぼくの監督した映画について「聞かれて」答えたものです。四本の長篇映画についての「聞かれたり」ですが、このほかに短篇アニメーションを二本、アニメーションを使ったテレビ番組のタイトル、短篇映画、短篇のドキュメンタリーを作っていて、その都度「聞かれたり」を経験したけれど、記録がないのでここには収められませんでした。
本業に関する「聞かれたり」も、かなり経験しています。展覧会を開いたり、デザインやイラストレーション関係の本を書いたりした時など。けれど巻末に「イラストレーション塾 質問箱」を収めましたので、その内容と重複するQ&Aが多いことに気づき、割愛しました。
第一部でのインタビューを受けてくださったかたがたによる発言の掲載を許可してくださったご遺族、関係者のみなさんに感謝いたします。
二〇一三年 初秋 和田 誠