目次
まえがき
序 論
第一章 レアリストの幻想と世界構築——『坂の上の雲』と『ベラミ』
第二章 レアリスムのキッチュな連環
第三章 ロブ=グリエとキッチュ
1 ロブ=グリエ論
第一章 『消しゴム』論
第二章 『嫉妬』から『迷路の中で』に至る変化
第三章 『迷路の中で』における虚構化の問題
第四章 『快楽の館』と『ニューヨーク革命計画』
第五章 小説における指示表現——バルザック『ざくろ屋敷』とロブ=グリエ『帰り道』
第六章 中村真一郎とロブ=グリエ——映画『パリよ、さらば』梗概
第七章 J・ポーランとロブ=グリエの言語意識——文学は恐怖政治から脱したか
2 様々なヌーヴォー・ロマン
第一章 〈語り〉の内省——クロード・シモン『風』
第二章 M・ビュトール『ミラノ通り』——小説の名称学の試み
第三章 M・ビュトール『心変わり』における主知的世界観の崩壊
第四章 H・アカン『アンチフォネール』
あとがき
参考文献
索引
前書きなど
まえがき 人間は現実の中で生きていると思っている。ないしは、現実だと思っている環境の中で生きていると言ったほうがより正確であろう。人間が現実を加工してしか捉えることができないのは自明である。しかし、しばしば、それが「現実」自体のふりをする。それを「レアリストの幻想」として本書では考察したい。 古典主義は、「現実=真実」よりも「真実らしさ」のほうに価値を置いた。現実は事物をあるがままに表しているが、芸術は物事のあるべき姿を表さねばならないと古典主義者は考えた。例えば、騎士は勇敢で忠誠心がなければならない。女性は貞淑でなければならない。しかし、現実には臆病で裏切り者の騎士も多いし、不貞な女性も少なくない。古典主義の下では、理想的な騎士や姫様こそが描かれるべきで、こうした状況では、小説は芸術と認められがたい。そこでは演劇が支配的文学ジャンルであった。 科学の進歩に基礎を置く近代社会では、現実を重視する小説が王座を奪う。小説と言えば、今でもバルザックやゾラを思い浮かべる者が少なくあるまい。そうした小説において、作家は読者にまず書かれていることが真実であると説得できなければならない。そのため、話者は後ろに退いて、語りはできる限り透明であることが望まれた。多くの小説がこうして三人称で語られることとなる。小説家は誇張や皮肉や教訓を避け、世界を飾ることも、理想化することもなく、ありのまま伝えようとした。客観的に世界を観察することによって科学者が自然の法則を探究するように、彼らは現実を描写することにより、人間の行動を支配する社会的・心理的法則を発見しようと努める。 一般に、近代化とともに、神に代わって人間は科学の力で世界を読み取れると信じ、現実を絶対的な視点から客観的に描こうとする小説を生みだす。ところが、科学は当初考えられたように、必ずしも人間に幸せをもたらしはしなかった。例えば、二つの世界大戦で、兵器の機械化による大量殺戮の残酷さが明らかになった。核兵器や生物・化学兵器といった新たな脅威も生じている。また二一世紀の現代になってもいっこうに戦争はなくなりそうにない。さらに、貧富の差や、様々な抑圧も残っている。社会の発展とともに科学への信頼は確固たるものになるどころか、揺らいでいる。 一方、人間の知に対する信頼は近代小説の誕生時から必ずしも絶対的ではなかった。フランス文学では、一九世紀後半フロベールがすでにレアリスムに疑義を挟み、二〇世紀に入るとプルーストが『失われた時を求めて』で「主観的世界」を構築して見せた。一九五〇年代に入ると、「ヌーヴォー・ロマン」の作家たちが伝統的レアリスムを批判して、 新しい小説形式を探究し始めた。 既成の価値観を無反省に受け入れ、それに基づいて馴致された世界のイメージに迎合する態度をわれわれは広くキッチュと呼びたい。キッチュの定義に関しては序論で述べるが、既存の表現に飽きたらず、現実の新たな意味を探究するヌーヴォー・ロマンの小説も、それを当たり前の試みだと見る視点から捉えれば、多分にキッチュに映ってくるであろう。ヌーヴォー・ロマンの作家たちもまたキッチュの連環に陥る危険がある。 また、本書では、イメージの担い手として、固有名詞を重視し、いくつかの章で分析を試みた。ブランド名に見られるように、それはキッチュに陥りやすい場である。文学における名称研究は少ないが、激変する現代社会で、「固有名」は普通名詞以上に変化を被っている注目すべき要素であろう。(後略)